相続放棄とは何を「放棄」する制度なのか―熟慮期間と再転相続から考える
前回まで、相続制度について、その制度が何のために存在するのかというところまで遡って考えてきました。
第2回では、相続放棄と限定承認について考えました。
そこで私は、相続人の生活保障と権利義務関係の安定(取引の安全)が衝突する場面において、民法は取引の安全を理由として相続人に相続を強制するのではなく、単純承認、限定承認、相続放棄という選択肢を用意し、
最後は相続人自身に決めさせている
のではないかと考えました。
では、そもそも相続放棄によって、相続人は何を「放棄」しているのでしょうか。
単に、
「借金はいりません」
「財産はいりません」
と言っているだけなのでしょうか。
この問題を考えていくと、相続放棄という制度が、単なる財産の放棄ではないことが見えてきます。
そして、最高裁判所が相続人自身の意思決定をどれほど重く扱っているのかも見えてきます。
今回は、相続放棄の熟慮期間と「再転相続」に関する三つの最高裁判例から、この問題を考えてみたいと思います。
相続放棄は、単なる「財産の放棄」なのか
相続放棄を日常的な言葉で説明すると、
「亡くなった人の財産も借金も引き継がないこと」
となるでしょう。
それ自体は間違いではありません。
しかし、民法939条は、もう少し強い効果を定めています。
「相続の放棄をした者は、その相続に関しては、初めから相続人とならなかったものとみなす。」
つまり、
いったん相続人となり、その後で個々の財産を放棄する、
という構造ではありません。
法律上は、
初めから相続人ではなかった
ことにする。
ここで動いているのは、預金や土地、借金といった個々の財産だけではありません。
その人の**「相続人としての地位」そのもの**です。
もっとも、相続放棄の法的性質については、学説上議論があります。
相続人としての地位に変動をもたらすという意味では身分行為としての性質を持つ一方、相続財産に属する権利義務を承継するか否かを決定するという財産法上の性質も持っています。
私は、この二つの性質を併せ持っているところに、相続放棄という制度の特徴があるように思います。
相続放棄とは、単に特定の財産について、
「これは要りません」
と意思表示する制度ではありません。
被相続人が有していた財産上の権利義務を包括的に承継する「相続人としての地位」を、自分が引き受けるのか否かを決定する制度
と見ることができるのではないでしょうか。
なぜ「3か月」の熟慮期間があるのか
民法915条1項は、相続人について、
「自己のために相続の開始があったことを知った時から3箇月以内」
に、単純承認、限定承認又は相続放棄をしなければならないと定めています。
一般には、
「相続放棄は3か月以内」
と説明される規定です。
しかし、ここでも私は、
なぜ3か月なのでしょうか。
と考えたくなります。
3か月という数字そのものより重要なのは、その期間が何のために与えられているのかということです。
その答えをかなり明確に示したのが、最高裁昭和59年4月27日判決です。
最高裁昭和59年4月27日判決―「選択できる状態」になっているか
最高裁昭和59年4月27日判決(民集38巻6号698頁)は、相続放棄の熟慮期間について重要な判断を示しました。
最高裁は、民法915条1項が3か月の熟慮期間を設けている理由について、相続人がその期間内に調査することなどによって、
相続財産があるのか。
どのような財産があるのか。
積極財産だけなのか。
債務もあるのか。
といったことを把握し、
単純承認、限定承認又は相続放棄のいずれを選択するのか、その前提条件を整えるため
であるという趣旨を述べています。
したがって、相続人が被相続人の死亡と自分が相続人になったことを知っていたとしても、被相続人に相続財産が全くないと信じ、そのように信じたことについて相当な理由があるような特別な場合には、単純に死亡を知った時から3か月を数えるべきではないとしました。
相続財産の全部又は一部の存在を認識した時、又は通常これを認識することができた時から熟慮期間を起算することを認めたのです。
私は、この判決で重要なのは、単に、
「例外的に3か月を延ばしてくれる判例」
ということではないと思います。
最高裁が見ているのは、
相続人が本当に選択できる状態にあったのか
ということです。
財産も借金も何もないと思っている人に、
「あなたは3か月以内に相続放棄を選ばなければなりませんでした」
と言っても、その人にはそもそも相続放棄を選択する契機がありません。
選択肢の存在を知らないというより、選択すべき問題が存在すること自体を認識していないからです。
そう考えると、熟慮期間は単なる期限ではありません。
相続人に、
「自分は、この相続を引き受けるのか」
を実質的に考えさせるための期間なのではないでしょうか。
ここにも、
最後は相続人自身に決めさせる
という相続法の考え方が現れているように思います。
二つの相続が重なる「再転相続」
相続放棄について、「相続人自身に選択させる」ということの意味が、さらに鮮明に現れる場面があります。
「再転相続」です。
少し分かりにくい言葉なので、単純な例で考えてみます。
祖父Aが死亡し、その子Bが相続人になったとします。
しかし、BがAの相続について、単純承認するのか、限定承認するのか、相続放棄するのかを決めないうちに、B自身も死亡してしまった。
そして、Bの子CがBを相続したとします。
この場合、Cの前には二つの相続が現れます。
一つは、
A→Bという第1の相続。
もう一つは、
B→Cという第2の相続。
Cは、B自身の財産を相続するかどうかだけでなく、Bがまだ決めていなかったAの相続についての選択にも関わることになります。
このように、相続人が承認又は放棄をしないで死亡し、その相続人についてさらに相続が開始することを「再転相続」といいます。
民法916条は、この場合について特別な熟慮期間を定めています。
しかし、ここで厄介な問題が生じます。
Cは、
Aの相続とBの相続について、それぞれ別々に選択できるのでしょうか。
最高裁昭和63年6月21日判決―二つの相続について別々に決めさせる
この問題について重要な判断を示したのが、最高裁昭和63年6月21日判決です。
最高裁は、民法916条について、単に熟慮期間の起算点を調整するためだけの規定とは考えませんでした。
再転相続人には、
第1相続と第2相続について、各別に熟慮し、承認又は放棄をする機会を保障する
という趣旨があるとしました。
これは重要な意味を持っています。
Cにとって、
「Aの相続を引き受けたいか」
という問題と、
「Bの相続を引き受けたいか」
という問題は同じではありません。
たとえば、Aには多額の借金があるが、B自身には十分な財産があるかもしれません。
そうであればCは、
Aの相続については放棄したい。
しかしBの相続については承認したい。
と考えるかもしれません。
逆の事情もあり得ます。
最高裁は、この二つを一括して、
「全部引き受けるか、全部放棄するか」
という二者択一にはしませんでした。
それぞれについて、相続人自身に考えさせ、選択させる。
ここにも、相続人の意思決定を重視する考え方が現れています。
ところが、「どちらを先に放棄するか」で結論が変わる。
ここからが、この判例の非常に興味深いところです。
Cが二つの相続を放棄したいと考えたとしても、
どちらを先に放棄するか
によって法律上の結果が変わります。
まず、Cが先に、
B→Cという第2相続を放棄した
場合を考えます。
相続放棄をすると、民法939条によって、Cはその相続について初めから相続人ではなかったものとみなされます。
つまりCは、Bの相続人としての地位を失います。
そうすると、Bが持っていた、
Aの相続について承認又は放棄を選択する地位
も、Cは承継しなかったことになります。
したがって、その後になってCが、
「ではAの相続も放棄します」
ということはできません。
Aの相続について選択するための法的な地位そのものを失っているからです。
ところが、順序を逆にすると結果が変わります。
Cがまず、
A→Bという第1相続について放棄し、
その後、
B→Cという第2相続について放棄する。
この順序であれば、最高裁は両方の放棄を認めました。
ここには、一見すると不思議な問題があります。
939条の遡及効を形式的に貫けば、先の放棄も消えるのではないか。
民法939条は、
「相続の放棄をした者は、その相続に関しては、初めから相続人とならなかったものとみなす。」
と定めています。
では、Cが後からBの相続を放棄した場合を、939条だけから論理的に考えてみます。
Cは、
初めからBの相続人ではなかった
ことになります。
そうであるなら、
Bが持っていたAの相続についての選択権も、Cは初めから承継していなかったことになりそうです。
すると、
「Cが先に行ったAの相続放棄は、そもそも権限のない者がしたことになるのではないか。」
という疑問が出てきます。
つまり、
第1相続を放棄する。
↓
その後、第2相続を放棄する。
↓
第2相続の放棄は相続開始時に遡る。
↓
Cは初めからBの相続人ではなかったことになる。
↓
ならば、Bから承継したはずの第1相続についての選択権も初めから持っていなかったことになる。
↓
先にした第1相続の放棄まで無効になるのではないか。
形式的な論理だけを積み重ねれば、このようにも見えます。
しかし、最高裁はこの結論を採りませんでした。
先に有効になされた第1相続についての放棄は、その後に第2相続を放棄したからといって、遡って無効になるものではないとしました。
ここは非常に興味深いところです。
「遡及」は現実ではなく、法が作った技術である。
私は、この判決を考えていて、民法939条の「遡及」というものの性質がよく見えるように思いました。
相続放棄をしたからといって、現実の過去が変わるわけではありません。
CがBの子であったという事実が消えるわけでもありません。
Bが死亡し、その後Cが一定の法律行為をしたという歴史的事実が消えるわけでもありません。
939条が、
「初めから相続人とならなかったものとみなす」
というのは、現実を説明しているのではありません。
一定の法律効果を実現するために、法がそのように扱うという擬制、すなわち法技術です。
そうであるなら、その法技術を形式的にどこまでも貫徹した結果、
いったん有効になされた相続放棄まで後から崩壊させることが、本当に制度の趣旨にかなうのか。
という問題が生じます。
最高裁は、そこまで939条の遡及効を貫きませんでした。
私は、このことに重要な意味があると思います。
法技術は、制度の目的を実現するために存在するのであって、制度の目的が法技術に従属するわけではない。
939条の遡及効も、それ自体が目的なのではありません。
相続放棄という制度をどのように機能させるのか、そのために用いられている法技術の一つだと見るべきではないでしょうか。
そして、この判例では、形式的な遡及効を最後まで押し通すことよりも、
いったん有効になされた相続人の選択を維持し、法律関係を安定させること
が優先されたと見ることができるように思います。
この点は、民法919条1項が、
「相続の承認及び放棄は、第915条第1項の期間内でも、撤回することができない。」
と定めていることとも関係してきます。
相続人に十分に考えさせ、最後は本人に決めさせる。
しかし、
いったん有効に決めた後は、その決定を容易には動かさない。
相続人の意思の尊重と、法律関係の安定。
相続放棄という制度には、この二つが同時に存在しているように思います。
令和元年8月9日最高裁判決―「相続人としての地位」を知って初めて選択できる
昭和63年判決から約30年後、再転相続について、最高裁は再び重要な判断を示しました。
最高裁令和元年8月9日判決(民集73巻3号293頁)です。
この判決で問題となったのも、再転相続における熟慮期間の起算点でした。
先ほどと同じように、
Aが死亡する。
Aの相続人Bが、Aの相続について承認又は放棄をしないまま死亡する。
Bの相続人Cが、Bを相続する。
という場面を考えます。
Cは、Bが死亡したことを知っています。
そして、自分がBの相続人であることも知っています。
では、その時から当然に、Aの相続についても3か月の熟慮期間が進み始めるのでしょうか。
最高裁は、そうは考えませんでした。
Bの相続人だと知ることと、Aの相続について選択できることは違う。
Cが、
「Bが死亡した。自分はBの相続人である。」
と知ったとしても、それだけでは、
BがAの相続について承認又は放棄をしないまま死亡していたこと
まで知っているとは限りません。
まして、
Bが持っていたAの「相続人としての地位」を、自分がBから承継した
ことまで認識しているとは限りません。
ここで最高裁は、非常に重要なことを述べています。
相続の承認又は放棄の制度は、
相続人に対し、被相続人の権利義務の承継を強制するのではなく、相続財産を承継するか否かについて選択する機会を与えるもの
である、としています。
私は、この説明が非常に重要だと思います。
相続は、人が死亡した瞬間に開始します。
そして民法896条によれば、被相続人の財産に属した一切の権利義務は、原則として相続人に承継されます。
しかし、民法はそこで終わっていません。
その承継を相続人に無条件で押し付けるのではなく、
単純承認するのか。
限定承認するのか。
相続放棄するのか。
を、相続人自身に選択させています。
令和元年判決は、この制度の核心を、
「承継を強制するのではなく、選択する機会を与える」
という形で明確に表現したものと見ることができます。
知らないことについて、選択することはできない。
そう考えると、熟慮期間の起算点についても答えが見えてきます。
CがBの相続人になったことを知っていたとしても、
BがAの相続人であったこと。
BがAの相続についてまだ承認又は放棄をしていなかったこと。
そして、その結果として、自分がBからAについての「相続人としての地位」を承継したこと。
これらを知らなければ、CにはAの相続について、
「承認するのか、放棄するのか」
という問題が存在すること自体が分かりません。
知らないことについて、選択することはできません。
そこで最高裁は、民法916条の熟慮期間について、再転相続人が、
自分が第1相続について「相続人としての地位」を承継した事実を知った時
から起算するとしました。
単にBが死亡したことを知った時ではありません。
単に自分がBの相続人になったことを知った時でもありません。
自分が、Aの相続について判断しなければならない法的地位に立ったことを知った時。
そこから初めて、熟慮期間を進行させる。
この考え方は、昭和59年判決とよく似ています。
昭和59年判決から令和元年判決まで、一つの考え方が流れている。
昭和59年判決では、相続財産が全くないと信じ、そのように信じたことに相当な理由がある場合について、
形式的に、
「死亡を知ったのだから3か月は始まっている」
とはしませんでした。
相続財産の存在を知らず、相続について現実に選択すべき問題があることを認識できない者に、形式的な熟慮期間の経過だけを理由として単純承認の効果を押し付けることを避けました。
昭和63年判決では、再転相続人に、
第1相続と第2相続について各別に熟慮し、承認又は放棄を選択する機会
を保障しました。
そして令和元年判決では、
自分が第1相続についての「相続人としての地位」を承継したことを知らなければ、その相続について選択する機会が現実に与えられたとはいえないとして、熟慮期間を進行させませんでした。
三つの判例を並べると、私はそこに一つの考え方が流れているように思います。
形式的に相続人となったから、それでよいのではない。
形式的に3か月が経過したから、それでよいのでもない。
相続人が、自分が置かれている状況を認識し、
相続財産について必要な情報を得て、
自分がどの相続について判断すべき立場にあるのかを知り、
そのうえで、
承認するのか、限定承認するのか、放棄するのかを自分で決める。
その機会を保障する。
私は、最高裁が一貫して重視しているのは、この点ではないかと思います。
「最後は相続人自身に決めさせる」は、単なる印象ではなかった。
第2回の記事で、私は相続放棄と限定承認について考えた末に、
「最後は相続人自身に決めさせる」
というところにたどり着きました。
そのときは、相続人の生活保障と権利義務関係の安定(取引の安全)という相続制度の二つの目的を比較しながら、制度趣旨からそう考えました。
しかし、その後、相続放棄に関する最高裁判例を追ってみると、この考えは単なる私の印象ではないように思えてきました。
昭和59年判決は、選択するための前提を整える時間を保障する。
昭和63年判決は、二つの相続について別々に選択する機会を保障する。
令和元年判決は、自分がその相続について選択すべき地位にあることを知るまで、熟慮期間を進行させない。
そして、いったん有効に選択した後は、昭和63年判決や民法919条1項に見られるように、その決定を容易には覆さず、法律関係の安定を図る。
こうして見ると、相続放棄制度には、
決める前には、本人が意味のある意思決定をできる機会を保障する。
そして、
決めた後には、その意思決定によって形成された法律関係を安定させる。
という二つの要請があるように思います。
相続人の意思の尊重と、法律関係の安定。
この二つは対立するものではありません。
むしろ、
本人に決めさせるからこそ、その決定を尊重する。
という一つの考え方の表と裏なのではないでしょうか。
相続放棄で本当に「放棄」しているもの。
ここまで来ると、冒頭の問いに少し答えられるように思います。
相続放棄によって相続人が放棄しているものは、単なる預金や土地ではありません。
借金だけでもありません。
個々の財産について、
「これは欲しい」
「これは要らない」
と選ぶ制度でもありません。
相続によって包括的に承継される権利義務全体について、
その「相続人としての地位」を自分が引き受けるのか否か。
それを決定する制度だと見ることができます。
だからこそ、法はその決定を簡単には扱わない。
決めるための熟慮期間を与える。
実質的に選択できない者について、その期間を形式的に進行させない。
再転相続では、それぞれの相続について別々に選択する機会を保障する。
そして、一度有効に決めた後は、その決定を容易には動かさない。
私は、ここに相続放棄という制度の一つの姿を見ることができるように思います。
なぜ、そこまで相続人の意思を重視するのか
ここまで最高裁判例を見てくると、もう一つ疑問が生じます。
なぜ、法はそこまで相続人本人の意思決定を重視するのでしょうか。
被相続人が死亡すれば、その人をめぐって形成されていた権利義務関係を誰かに承継させる必要があります。
債権者など第三者の利益もあります。
権利義務関係の安定(取引の安全)という観点だけから考えれば、相続人に当然に承継させ、その関係を維持した方が簡単です。
しかし、民法はそうしていません。
相続人に、
単純承認。
限定承認。
相続放棄。
という選択肢を与えています。
そして最高裁も、その選択が名目的なものに終わらないように、熟慮期間について、相続人が現実に意味のある選択をすることができるかという観点から解釈してきました。
私は、その背景には、民法全体を貫く私的自治という考え方があるように思います。
「私のことを私が決める」という私法の原則
私的自治という言葉は、少し難しく聞こえます。
しかし、その根本にある考え方は単純です。
自分自身の法律関係については、原則として自分自身の意思によって決める。
ということです。
契約をするのか。
誰と契約するのか。
どのような内容の契約をするのか。
自分の財産をどのように処分するのか。
こうした私法上の法律関係について、国家や他人が一方的に決めるのではなく、本人の意思を出発点とする。
これは近代民法の基本的な考え方です。
もちろん、私的自治は無制限ではありません。
強行法規、公序良俗、権利濫用などによる制約があります。
しかし、出発点が本人の意思にあることに変わりはありません。
私は、相続放棄についても、これと同じものを見ることができるように思います。
相続は、契約とは違います。
被相続人の死亡によって、相続人の意思とは無関係に開始します。
相続人は、
「今日から相続を始めよう」
と決めたわけではありません。
ある日、他人の死亡という事実によって、突然、被相続人の権利義務を包括的に承継する立場に置かれます。
だからこそ民法は、その結果を無条件に相続人へ押し付けるのではなく、
「その地位を最終的に引き受けるのかどうかは、あなた自身が決めてよい。」
という仕組みを用意しているのではないでしょうか。
財産権の保障と私的自治
このような私的自治の考え方は、憲法上の財産権保障や経済的自由とも無関係ではありません。
憲法29条は財産権を保障しています。
そして、財産権の保障は、単に、
「自分が持っている財産を国家に奪われない」
というだけのものではありません。
財産を取得し、利用し、処分し、自らの経済生活を形成する自由とも深く関係しています。
もっとも、ここから直ちに、
「相続放棄の自由は憲法29条によって直接保障されている」
とまでいうのは慎重であるべきでしょう。
しかし、財産に関する法律関係について本人の意思を尊重するという考え方が、私法の領域における私的自治と親和的であることは確かだと思います。
そう考えると、
被相続人が残した財産上の権利義務を、
自分の意思に反してまで引き受けさせられない。
という相続放棄制度の基本的な方向も理解しやすくなります。
第2回で私は、
相続は、相続人自身の生活を犠牲にしてまでも、被相続人の権利義務関係(取引の安全)を維持しようとする制度ではない。
と考えました。
今回、判例を追ってみると、そのことはさらに、
相続人自身の意思に反してまで、相続人としての地位を引き受けさせない。
という形でも現れているように思います。
「決めさせること」と「決めたことを守ること」
そして、私的自治を本当に尊重するためには、
単に、
「好きに決めてよい」
と言うだけでは足りません。
その人が、何を決めるのかを理解していなければならない。
必要な情報を得る機会がなければならない。
自分が選択すべき立場にあることを知らなければならない。
そして、十分な機会を与えられたうえで決定したなら、その決定が法的に尊重されなければならない。
ここまで見てきた最高裁判例は、この一連の過程を保障しているように見えます。
昭和59年判決は、
選択するための前提を整える機会を保障する。
昭和63年判決は、
複数の相続について、それぞれ別個に選択する機会を保障する。
令和元年判決は、
自分が選択すべき「相続人としての地位」にあることを認識して初めて、熟慮期間を進行させる。
そして、民法919条1項や昭和63年判決に見られるように、
いったん有効になされた選択については、法律関係の安定を図る。
つまり、
決める前には、意味のある自己決定を保障する。
そして、
決めた後には、その自己決定を尊重する。
この二つは、別々の話ではないのだと思います。
本人に決めさせることを大切にするからこそ、
本人が決めたことも大切にする。
私は、そのように理解しています。
939条の「遡及効」をもう一度考える。
ここで、第2部で取り上げた民法939条に戻ります。
相続放棄をした者は、
「その相続に関しては、初めから相続人とならなかったものとみなす。」
しかし、昭和63年判決で見たように、この遡及効は、形式的な論理として無制限に貫かれているわけではありません。
後から第2相続を放棄したからといって、それ以前に有効に行われた第1相続の放棄まで遡って無効にはしない。
ここから私は、939条の「遡及」を、
相続放棄という制度の本質そのもの
と考えるべきではないように思います。
それはむしろ、
相続放棄という制度が目的とする法律関係を実現するために用いられている法技術
なのではないでしょうか。
この区別は、次に考えようとしている代襲相続の問題で重要になります。
では、なぜ相続放棄では代襲相続しないのか
民法887条2項は、被相続人の子が、
相続開始以前に死亡した場合。
相続欠格となった場合。
廃除によって相続権を失った場合。
について、その者の子による代襲相続を認めています。
ところが、
相続放棄は、代襲原因に含まれていません。
法論理上は説明できます。
相続放棄をした者は、939条によって、
初めから相続人ではなかった
ものとみなされる。
したがって、その者が有していたはずの相続上の地位を、その子が代襲する余地もない。
だから887条2項には、相続放棄が代襲原因として列挙されていない。
法論理としては、きれいです。
しかし、今回939条について考えてきた後では、私はここで止まれません。
939条の遡及効は、法が採用した一つの法技術です。
現実には、放棄した者の子は存在しています。
親が相続放棄をしたからといって、祖父母と孫との血縁関係が消えるわけではありません。
そして、法がそのように制度設計しようと思えば、
「相続放棄をした本人は初めから相続人でなかったものとする。しかし、その子については代襲相続を認める。」
という制度を作ることも、法技術上は可能だったはずです。
現に、欠格や廃除については、本人が相続権を失っても、その子には代襲相続を認めています。
そうであるなら、
「939条で初めから相続人でなかったことになるから、代襲相続しない。」
という説明は、
現在の条文から結論を導く法論理上の説明ではあっても、
なぜ民法がそのような制度を選択したのか
という問いへの答えにはなっていないのではないでしょうか。
欠格・廃除は代襲するのに、なぜ放棄は代襲しないのか。
ここには、非常に興味深い対比があります。
被相続人の子が相続欠格となった。
場合によっては、被相続人の生命を侵害したことを理由として相続資格を失っている。
それでも、その者の子には代襲相続が認められます。
被相続人の子が、被相続人に対する虐待や重大な侮辱などを理由として廃除された。
それでも、その者の子には代襲相続が認められます。
ところが、
相続人が法律上認められた相続放棄を選択した。
すると、その者の子には代襲相続が認められません。
並べてみると、不思議です。
欠格・廃除によって相続権を失った者の子は代襲できる。
しかし、
適法に相続放棄をした者の子は代襲できない。
なぜなのでしょうか。
しかも、今回考えてきたように、相続放棄は、
相続人本人の意思決定を非常に重く扱う制度
です。
そうであるなら、さらに別の疑問も生じます。
相続放棄をした本人が、
「私はこの相続人としての地位を引き受けません。」
と決めることは理解できます。
しかし、
なぜ、その本人の意思決定によって、その子の代襲相続の可能性まで失われるのでしょうか。
本人の自己決定を尊重することと、
その子の相続上の地位まで失わせることとは、
本当に同じ問題なのでしょうか。
ここでは、939条の形式論だけではなく、
そもそも代襲相続は何のためにある制度なのか。
というところまで遡って考える必要がありそうです。
次回は、
「欠格・廃除は代襲するのに、なぜ相続放棄は代襲しないのか。」
という問題から、代襲相続の制度趣旨そのものを考えてみたいと思います。
【参考文献・判例】
最高裁判所昭和59年4月27日判決・民集38巻6号698頁
最高裁判所昭和63年6月21日判決
最高裁判所令和元年8月9日判決・民集73巻3号293頁
民法第887条、第915条、第916条、第919条、第939条
中川善之助・泉久雄『相続法〔第4版〕』(有斐閣、2000年)
中川善之助・泉久雄編『新版注釈民法(27)相続(2)』


