司法に「積極」も「消極」もない――司法消極主義という考え方への疑問
日本の裁判所について、「司法消極主義」という言葉が使われることがあります。
裁判所は、国民によって選挙された国会の判断を尊重し、法律を違憲と判断することには慎重であるべきだ。高度に政治的な問題については、司法が介入することを控えるべきだ。
これに対して、基本的人権の保障や「憲法の番人」としての役割を重視し、裁判所が積極的に違憲判断を行う姿勢は、「司法積極主義」と呼ばれます。
しかし、私は以前から、この「積極」と「消極」という対立の立て方そのものに違和感があります。
司法に、積極も消極もないのではないでしょうか。
裁判所に訴えが提起され、その事件を解決するために法律や国家行為の憲法適合性を判断する必要があるのであれば、裁判所は憲法を解釈して具体的な規範を定立し、事実を認定し、その規範に事実を当てはめて結論を出す。
違憲なら違憲、合憲なら合憲と判断する。
それが司法の仕事です。
本来するべき仕事をすることを「積極」と呼び、本来するべき仕事をしないことを「消極」と呼んで、二つの司法哲学が対等に存在するかのように論じること自体、おかしいのではないか。
私は、そこから考えてみたいと思います。
裁判所の正統性はどこから生まれるのか
司法消極主義を説明する際、「裁判官には民主的正統性がない、あるいは乏しい」という説明がなされることがあります。
国会議員は国民によって選挙されています。一方、裁判官は国民の多数票によって選ばれているわけではありません。
だから、国民によって選ばれた国会が制定した法律を、選挙で選ばれていない裁判官が簡単に覆すべきではない、というわけです。
しかし、この説明には大きな疑問があります。
そもそも、国会の正統性はどこから生まれるのでしょうか。
「多数の国民から選ばれたから」だけではありません。
多数の票を得た者が国家権力を行使してよいということ自体が、日本国憲法によって定められた統治の仕組みだからです。
国会の正統性の根拠も、憲法にあります。
そして、それは裁判所も同じです。
日本国憲法76条は、すべて司法権を最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属させ、裁判官について「この憲法及び法律にのみ拘束される」としています。
さらに81条は、最高裁判所を「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」としています。
国会も裁判所も、その国家機関としての正統性は憲法秩序から与えられているのです。
国会議員が多数の票によって選ばれているからといって、何をしてもよいわけではありません。
国会も憲法の下にあります。
多数者によって選ばれたことは、憲法による拘束から解放される根拠にはなりません。
そうであれば、
「国会には民主的正統性があるから、裁判所は違憲審査権の行使を控えるべきだ」
という説明だけでは足りません。
憲法によって国会に与えられた権限を尊重するために、同じ憲法によって裁判所に与えられた権限の行使を控えるというのであれば、なぜそうなるのかについて、別の合理的な説明が必要になるはずです。
民主主義とは、単なる多数決ではない
この問題には、もう一つ大きな前提があります。
民主主義を、単純に「多数者が決めること」と理解してよいのか、という問題です。
51人と49人の意見が対立したとき、51人の意思によって49人の自由を好きなように奪えるのであれば、それを私たちが目指してきた民主主義と呼ぶことはできないでしょう。
多数によって社会の意思決定を行う。しかし、その多数によって個人の自由が侵害されたときには、それを修復する仕組みも持っている。
その重要な仕組みの一つが司法です。
多数者による政治過程の中で自由を侵害された者が裁判所に訴え、裁判所が多数者の意思ではなく、法に従って判断する。
これは、民主主義に対する外部からの介入ではありません。
憲法自身が予定している統治の仕組みです。
むしろ、力や数によって個人の自由が侵害されたとき、それを法によって修復できる仕組みを備えているからこそ、民主主義は単なる多数者支配とは異なるものになります。
そう考えれば、裁判官が多数者によって選ばれていないことは、必ずしも司法の弱点ではありません。
むしろ、多数者によって少数者の自由が侵害されたとき、多数者の意思から距離を置いて法に基づく判断をするためには、司法が多数決から独立していることに意味があります。
多数者の意思によって少数者の自由が侵害されたとき、司法が法に基づいてそれを是正する。
その仕組みと、その仕組みが実際に機能することまで含めて、自由主義を包摂した民主主義なのではないでしょうか。
この点については、日本学術会議をめぐる問題について、少数派から権力主体への統制もまた民主主義に不可欠であるという観点から、以前の記事でも考察しました。
正統性を支えるものは「合理性」である
国会の意思決定には、選挙という数量的な指標があります。
司法には、それと同じ指標はありません。
では、裁判官による判断の正統性を支えるものは何でしょうか。
私は、それは「合理性」だと考えています。
私は、正義とは合理性であると考えています。
なぜAには認められ、Bには認められないのか。
なぜ、この目的のために、この自由を制限することが許されるのか。
なぜ、この国家行為は憲法に適合するのか。
裁判所は、その結論に至る理由を合理的に説明しなければなりません。
裁判とは、権力者の直感や好み、政治的思惑によって結論を出す制度ではありません。
法を解釈して具体的な規範を定立し、事実を認定し、その規範に事実を当てはめ、結論を導き、その理由を示す。
その判断過程を合理によって説明する制度です。
そこに合理性があるからこそ、その判断には正統性が生まれます。
だから私は、「裁判官は選挙で選ばれていないから民主的正統性が弱い」という議論には賛成できません。
多数者から距離を置き、憲法と法律に拘束され、合理によって判断する。
それこそが、司法に与えられた役割ではないでしょうか。
そして、少数者の自由が多数者の意思によって侵害されたとき、その司法が実際に機能すること自体が、民主主義の正統な作動の一部であると私は考えます。
「憲法の文言は抽象的だから」という説明
司法消極主義については、憲法の規定が抽象的であることも理由として語られます。
確かに、「個人の尊重」「法の下の平等」「表現の自由」などの憲法上の規範は、一般の法律と比較すれば抽象度が高いものです。
しかし、それは司法が判断しない理由になるでしょうか。
大きな規範から、具体的な事件を解決するための、より具体的な規範を導き出すことこそ、司法の仕事です。
そして裁判所には、そのために長年蓄‹積してきた違憲審査基準があります。
憲法の規定が抽象的であることから、
「だから国会の判断に委ねよう」
という結論が当然に導かれるわけではありません。
抽象的な法規範を解釈し、具体的な規範へと落とし込み、その規範に認定した事実を当てはめる。
それは司法にとって特別な仕事ではありません。
程度の差こそあれ、法律の解釈適用において日常的に行われている作業です。
憲法の規定が抽象的だから司法判断を控えるというのであれば、抽象的な規範を具体化して事件を解決するという司法本来の仕事を、憲法についてだけ後退させることになりかねません。
不要な憲法判断まで求めているわけではない
ここは誤解のないようにしておきたいと思います。
私は、訴訟で憲法上の主張がなされたら、裁判所はそのすべてについて憲法判断をしなければならない、と言っているのではありません。
通常の法律の解釈適用だけで事件を解決できるのであれば、あえて憲法判断をする必要はありません。
原告側が、事件を解決するために必要のない憲法論まで持ち出したのであれば、それはむしろ訴訟戦略の問題です。
不要な攻撃方法を選択し、裁判所がそれを取り上げなかったというだけで、「司法が憲法判断から逃げた」と評価するのは筋が違います。
私が問題にしているのは、法的判断が事件の解決に必要であり、その判断が法的に可能であるにもかかわらず、「政治性」や「政治部門への配慮」などを理由として、司法がその判断から後退する場合です。
その問題が最も鮮明に現れるのが、いわゆる「統治行為論」ではないかと思います。
統治行為論――法的に判断できる。しかし判断しない
統治行為論を考える上で重要な最高裁判決が、昭和35年6月8日の苫米地事件大法廷判決です。
この事件では、衆議院の解散の効力が問題となりました。
最高裁は、直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為について、たとえそれが法律上の争訟となり、その有効・無効について法律上判断することが可能であっても、司法審査の対象から外れる場合があるという考え方を示しました。
私は、ここに強い違和感を覚えます。
法的に判断できない、と言っているのではありません。
法的に判断できる。
それでも、司法審査の対象から外す。
最高裁は、その根拠として、三権分立の原理、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判手続上の制約などを挙げています。そして、このような司法権に対する制約について、特定の明文による規定はないものの、「司法権の憲法上の本質に内在する制約」であるとしています。
しかし、
それらの事情から、なぜ「法的判断が可能であるにもかかわらず、司法審査の対象外となる」という結論が導かれるのでしょうか。
三権分立であるからこそ、司法には司法としての役割があります。
裁判所が司法機関であるからこそ、政治的判断ではなく法的判断を行うのではないでしょうか。
また、裁判手続上の制約があるのであれば、その制約の中で認定できる事実に基づいて判断することになります。
これらの事情が、なぜ司法審査そのものから退くことを正当化するのか。
そこには、なお法的・論理的に説明可能な橋が必要であるように思います。
政治性が高いことと、司法審査をしないこととの間にも、当然に論理的なつながりがあるわけではありません。
むしろ、逆の疑問さえ生じます。
国家統治の根幹に関わるほど重要な国家行為であれば、その行為が国民の自由や権利に及ぼす影響も大きくなり得ます。
政治的に重大である。
だから司法による統制を弱くする。
これは、本当に合理的なのでしょうか。
政治性が高くなればなるほど、憲法による司法的統制が後退するのであれば、憲法による統制が最も必要となり得る領域ほど、司法が遠ざかるという逆説が生じます。
「政治部門に委ねる」という説明
苫米地判決は、このような高度に政治性のある国家行為について、その法律上の有効・無効を審査することは、司法裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委ね、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきであるとしています。
しかし、ここでも私は疑問を持ちます。
政治部門に政治的責任があることと、裁判所が法的判断をしないこととは、別の問題ではないでしょうか。
国会や内閣が国民に対して政治的責任を負う。
それはそのとおりです。
しかし、裁判所には裁判所として、憲法によって与えられた司法上の職責があります。
政治部門が政治的責任を負っているからといって、司法部門の職責が消えるわけではありません。
しかも、第1部で述べたように、国会の正統性も裁判所の正統性も、究極的には憲法秩序に由来します。
憲法によって政治部門に与えられた権限を尊重するために、同じ憲法によって司法に与えられた権限を後退させるというのであれば、その理由はやはり憲法秩序の中で合理的に説明されなければならないはずです。
多数者の支持がある。
政治的に重要である。
政治部門が国民に責任を負っている。
それらは、いずれも政治の側の事情です。
その事情を理由として司法が法的判断から退くのであれば、政治の論理によって司法の機能が後退することになります。
しかし、司法は政治部門の補助機関ではありません。
司法には、司法として与えられた役割があります。
その役割が政治性の高さによって縮減されるのであれば、その縮減自体が憲法上どのように正当化されるのかが問われなければなりません。
砂川事件――「司法審査をしなかった」のではない
この点では、昭和34年12月16日の砂川事件最高裁大法廷判決も興味深いものです。
最高裁は、日米安全保障条約のような高度の政治性を有する条約について、その内容が「一見極めて明白に違憲無効」であると認められない限り、原則として司法審査権の範囲外であるとしました。
ここで注意したいことがあります。
砂川判決は、実際には司法審査を全くしなかったわけではありません。
「一見極めて明白に違憲無効か」という基準を設定し、その基準に照らして対象を検討した上で、「一見極めて明白に違憲無効」とはいえないと判断しているからです。
それ自体、司法審査です。
したがって、砂川判決について問うべきなのは、
「司法審査をしたか、しなかったか」
ではなく、
「なぜ高度の政治性があることによって、違憲審査の密度をそこまで低下させてよいのか」
という点です。
裁判所は、自ら「一見極めて明白に違憲無効」という審査基準を定立し、その規範に事実を当てはめて結論を出しています。
つまり、判断できないのではありません。
現に判断しています。
問題は、なぜ「一見極めて明白に違憲無効」という極めて限定された場合にしか違憲判断をしない審査基準を採用することが正当化されるのか、ということです。
高度に政治的である。
だから、違憲審査の密度を大幅に低下させる。
この二つを結び付ける合理的な理由が必要になるはずです。
「政治だから判断しない」は、法的理由なのか
司法が政治に介入しない。
この表現は、一見すると慎み深く、もっともらしく聞こえます。
しかし、私はこの言葉にも違和感があります。
裁判所が憲法適合性を判断することは、本当に「政治への介入」なのでしょうか。
裁判所が政策を決めるのであれば、それは政治への介入でしょう。
裁判所が予算配分を決め、外交政策を立案し、安全保障政策を形成するのであれば、それは司法の役割を越えるでしょう。
しかし、裁判所が具体的事件において、
「この国家行為は憲法に適合するか」
を判断することは、それとはまったく違います。
それは、憲法によって裁判所に与えられた司法作用そのものです。
にもかかわらず、憲法適合性の判断を「政治への介入」と表現してしまうと、司法の本来の仕事が、あたかも政治部門への越権行為であるかのように見えてしまいます。
司法が法に基づいて政治部門の行為を審査することは、政治への介入ではありません。
権力分立の中で司法に与えられた職責の遂行です。
政治性が高いほど、司法は遠ざかってよいのか
ここまで考えると、統治行為論の根底にある問題が見えてきます。
政治性が高い。
だから司法は慎重になる。
政治性がさらに高い。
だから司法審査の密度を下げる。
場合によっては、司法審査そのものから退く。
この方向に議論を進めれば、結果として、
政治的に重要であればあるほど、司法による憲法統制が弱くなる
ことになります。
しかし、政治的に重要であるということは、その国家行為が社会や個人に与える影響も大きいということです。
そのような国家行為について、
政治的に重要である。
だから司法は遠ざかる。
という結論が、本当に憲法による権力統制という考え方と整合するのでしょうか。
政治部門に一定の判断の幅が認められるとしても、そのことと、司法審査そのものから退くことは別の問題です。
問題となる国家行為について、どのような審査基準を用いるべきかを定め、事実を認定し、その規範に事実を当てはめて判断する。
それが司法の仕事です。
政治部門に一定の判断の幅があることは、審査の内容や基準に影響することはあっても、それだけで司法が判断から撤退する理由にはならないはずです。
「慎重な司法」と「判断しない司法」は違う
司法が慎重であること自体を、私は否定するものではありません。
むしろ、司法は慎重でなければなりません。
慎重に事実を認定する。
慎重に法を解釈する。
慎重に規範を定立する。
そして、その規範に事実を慎重に当てはめる。
その結論が社会に大きな影響を与える問題であれば、なおさら慎重であるべきでしょう。
しかし、慎重であることと、判断しないことは違います。
政治的な影響が大きいから判断を避ける。
政治部門への配慮から審査密度を下げる。
それを「慎重」と呼ぶのであれば、司法における慎重さの意味が変わってしまいます。
司法における慎重さとは、本来、判断から遠ざかることではなく、より精密に判断することであるはずです。
司法に求められているのは、権力に遠慮することではありません。
法に忠実であることです。
自由の最後の砦が機能しなければ
私は、日本社会に存在する不合理な出来事のすべてを司法の責任だと言うつもりはありません。
行政が不合理な判断をすることもあるでしょう。
国会が不合理な法律を制定することもあるでしょう。
多数者が少数者の自由を侵害することもあるでしょう。
人間が作る社会である以上、それらを完全になくすことはできません。
だからこそ、最後に司法があります。
政治や行政の過程で是正されなかった不合理によって、具体的な個人の自由や権利が侵害されたとき、その人が最後に法による救済を求める場所が裁判所です。
そこで司法が機能すれば、政治や行政の段階で生じた不合理を、法によって是正することができます。
しかし、最後の司法までが判断から後退すれば、その不合理を法によって修復する場所がなくなります。
「自由の最後の砦」という言葉があります。
私は、この言葉には極めて重い意味があると思っています。
自由が侵害されること自体を、社会から完全になくすことはできない。
だから、最後にそれを修復する場所を用意する。
その場所が司法である。
ところが、自由が侵害されたときに、その侵害を眺めているだけの砦では意味がありません。
最後の砦が機能しなければ、その前の段階で生じた不合理は、そのまま社会に残ることになります。
なぜ私は日本の司法を問題にするのか
私は以前から、日本社会に存在する様々な不合理を考えるとき、最後には司法の問題に行き着くことが多いと感じてきました。
政治に問題がある。
行政に問題がある。
組織に問題がある。
多数者による少数者への圧力がある。
もちろん、それぞれに問題があります。
しかし、それらによって具体的な人の自由や権利が侵害され、最後に裁判所へ救済を求めても、そこで法による統制が働かないのであれば、その不合理は社会の中に残り続けます。
さらに深刻なのは、司法がその不合理を是認した場合です。
それまで政治や行政の世界に存在していた不合理が、司法判断を経ることによって、「法的にも許されること」として社会に定着しかねないからです。
司法は、社会で最初に問題を防ぐ機関ではありません。
しかし、最後に問題を是正することのできる機関です。
だからこそ、その最後の機関が機能するかどうかは、社会における自由のあり方そのものに関わります。
司法が機能しなければ、法の支配も、自由主義も、基本的人権の保障も、現実の社会では絵に描いた餅になってしまいます。
憲法は、政治部門に対するお願いではない
日本国憲法98条は、この憲法を国の最高法規とし、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しないと定めています。
憲法は、政治部門に対して、
「できれば憲法を守ってください」
とお願いしているのではありません。
憲法に反する国家行為は、効力を有しない。
それが最高法規であるということです。
そして81条は、最高裁判所を、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所としています。
そうであれば、具体的な争訟において憲法適合性の判断が必要となったとき、裁判所がすべきことは明瞭です。
憲法を解釈して規範を定立する。
事実を認定する。
その規範に事実を当てはめる。
そして、結論を示す。
それだけのことです。
その過程のどこにも、政治的に望ましい結論を選択する作業はありません。
だからこそ、裁判官は政治家である必要がないのです。
「司法消極主義」という言葉が隠してしまうもの
ここで、最初の疑問に戻ります。
なぜ私は「司法消極主義」という言葉そのものに違和感を覚えるのでしょうか。
それは、この言葉によって、本来問われるべき問題が見えにくくなるからです。
「司法積極主義」と「司法消極主義」。
こう並べると、あたかも二つの対等な司法哲学が存在し、裁判官がどちらを選択するかは司法観の違いであるかのように見えます。
しかし、本当にそうでしょうか。
具体的な争訟がある。
その解決のために法的判断が必要である。
裁判所には、その判断をする権限がある。
そして、その判断は法的に可能である。
それなら、判断すればよい。
それを行うことを「積極」と評価する必要はありません。
司法が司法として機能しているだけです。
逆に、その判断をしないのであれば、
「消極的な司法観だから」
で説明を終わらせることはできません。
なぜ判断しないのか。
その理由こそが問われなければなりません。
そして、その理由自体が、憲法と法に照らして合理的なものでなければならない。
「消極主義」という名前を与えることによって、判断しないこと自体が一つの正当な選択肢であるかのように扱ってしまえば、司法が本来負っている職責そのものが見えなくなります。
私は、そこにこの言葉の危うさを感じます。
私が求めているのは「司法積極主義」ではない
したがって、私が求めているのは「司法積極主義」ではありません。
裁判所が社会改革の先頭に立つことでもありません。
裁判官が自らの政治思想や価値観によって社会を変えることでもありません。
それをすれば、むしろ司法から離れてしまいます。
裁判官は政治家ではありません。
政策を作る者でもありません。
だからこそ、政治的な結果を求めて判断する必要もなければ、政治的な結果を恐れて判断を控える必要もない。
どちらも司法の仕事ではありません。
司法がすることは、法による判断です。
規範を定立し、事実を認定し、その規範に事実を当てはめ、合理的な理由を示して結論を出す。
違憲なら違憲。
合憲なら合憲。
それだけです。
司法権の自己放棄になってはいないか
司法消極主義が、単に「慎重な司法」を意味するのであれば、私も異論はありません。
司法は慎重であるべきです。
しかし、その慎重さは、判断を避ける方向に働くものではなく、より精密な判断をする方向に働くべきものです。
慎重に規範を定立する。
慎重に事実を認定する。
慎重にその規範に事実を当てはめる。
そして、慎重に理由を示す。
その結果として、結論を示せばよい。
ところが、「慎重」という言葉が、政治部門への配慮や法的判断からの撤退を意味するようになれば、話は別です。
それは司法の慎重さではなく、司法権の自己抑制を超えて、司法権の自己放棄になりかねません。
自由を守るために置かれた司法が、自らその機能を縮小する。
自由の最後の砦が、自ら門を閉ざす。
そこには、私は大きな矛盾を感じます。
合理の世界に、不合理を持ち込まない
裁判とは、本来、合理の世界です。
一方当事者が主張する。
他方当事者が反論する。
裁判所が法を解釈して規範を定立する。
証拠によって事実を認定する。
その規範に事実を当てはめる。
そして、なぜその結論になるのかを理由として示す。
だからこそ、裁判による権力行使は正当化されます。
その世界に、政治的な事情を持ち込み、それによって法的判断の密度を下げたり、判断そのものから退いたりするのであれば、その事情について法的・合理的な説明が必要です。
その説明が合理的であるならば、それもまた司法判断です。
しかし、合理的な説明なしに司法が後退するのであれば、私はそこに正義を見ることはできません。
私にとって、正義とは合理性だからです。
司法に「積極」も「消極」もない
結局、私は最初のところに戻ってきます。
司法に「積極」も「消極」もない。
司法は、政治に積極的に介入する必要などありません。
政治に遠慮して消極的になる必要もありません。
裁判所に訴えがあり、その事件を解決するために法的判断が必要なのであれば、法に基づいて判断する。
憲法判断が必要なのであれば、憲法に基づいて判断する。
そして、その判断を合理的な理由によって説明する。
それが司法です。
その結果、法律が合憲なのであれば、合憲とすればよい。
違憲なのであれば、違憲とすればよい。
その結論が国会にとって都合がよいか悪いか。
政府にとって都合がよいか悪いか。
多数の国民が歓迎するか反発するか。
それらは、司法判断の結論を左右する物差しではありません。
裁判官が見るべき物差しは、憲法と法です。
多数者の力によって自由が侵害されたときにも、その物差しを変えずに判断する。
だからこそ、司法は自由の最後の砦たり得ます。
私は、司法にもっと「積極的」になってほしいのではありません。
司法に、司法であってほしい。
それだけです。
法の支配も、自由主義も、基本的人権の保障も、最後には、それを現実の社会で機能させる司法を必要とします。
自由の最後の砦が機能しなければ、どれほど立派な憲法を掲げても、自由は紙の上にしか存在しません。
だから私は、司法消極主義という言葉を前にすると、どうしても最初の疑問に戻ります。
法的に判断すべきことを、法に基づいて判断する。
それを「積極」と呼ぶ必要があるのでしょうか。
そして、それをしないことを「消極」という一つの司法哲学として認めてよいのでしょうか。
司法に、積極も消極もない。
ただ、司法であればよい。


