政治とは何か――私たちが自由に生きるために

「政治」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
国会、選挙、政党、総理大臣、与党と野党。あるいは、政治家の発言や不祥事を思い浮かべる人もいるかもしれません。
政治に対して思い浮かべるイメージは、人それぞれでしょう。
しかし、**「政治とは何か」**と真正面から問われたとき、それを端的に答えることは、意外に難しいのではないでしょうか。
では、そもそも「政治」とは何なのでしょうか。
政治とは、憲法の根本価値を具現すること
私は、これまで政治について、
「政治とは、憲法の理念を具現化することである」
と表現してきました。
実際、以前の記事でも、政治について「憲法の普遍的価値を具現化すること」と表現しています。
しかし、改めて「政治とは何か」を考えるならば、もう少しその意味を明確にしておく必要があります。
政治は、単に社会のことを決めることではありません。
日本国憲法前文は、
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるもの」
としています。
政治を担う人たちが持つ権限は、その人たち自身のものではありません。
主権者である国民から託されたものです。
そして、憲法は、国民から政治を担う者へ権限が託される仕組みを定めるとともに、その権限が行きすぎて、国民一人ひとりの自由を侵すことのないよう、権力の行使に歯止めをかけています。
したがって、国民から託された権限は、憲法の定める枠組みの中で、憲法が保障する価値を実現するために行使されなければなりません。
その憲法の根本価値を突き詰めれば、
「一人ひとりが自由」
に行き着きます。
したがって、政治とは、
「一人ひとりが自由」という憲法の根本価値を具現すること
であると私は考えます。
私のことを私で決める
では、ここでいう「一人ひとりが自由」とは、どういうことでしょうか。
私は、これまで「自由とは何か」について、
「私のことを私で決めること」
と表現してきました。
自由とは、自己決定です。
今日、何を着るのか。何を食べるのか。どこに住むのか。どのような仕事をするのか。誰と一緒に生きるのか。
本来、それを決めるのは私です。
誰かが私に代わって決めるものではありません。
日本国憲法は、私たち一人ひとりに自由を保障しています。
そして、その自由の保障の根底にあるのが、憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という、憲法の核心的価値です。
一人ひとりの人間は、国家や社会のための手段ではなく、それぞれがかけがえのない存在です。
世界は、国家から始まるのではありません。一人ひとりの個人から始まります。
国家のために個人が存在するのではありません。
国家こそ、一人ひとりの自由を保障し、それを実現するための手段でなければなりません。
だからこそ、自分のことを自分で決め、自分の人生を自分で生きる自由が保障されなければならない。
つまり、
「個人の尊厳」があるからこそ、「自由」が保障されるのです。
私とあなたが出会うところから、政治が必要になる
しかし、現実の社会には「あなた」がいます。
私は自由に生きたい。
あなたも自由に生きたい。
そして、ときに私の自由とあなたの自由はぶつかります。
道路をどこに造るのか。学校や保育所をどうするのか。働く人をどこまで法律で保護するのか。誰がどれだけ税金を負担し、それを何に使うのか。
これらは、私一人では決められません。
私にも関係し、あなたにも関係するからです。
そこで、
「私たちのことを、どう決めるのか」
という問題が生まれます。
ここから、政治が必要になります。
私のことを私で決める。
これが自由です。
しかし、私とあなたに共通する事柄については、私一人で決めることはできません。
そこで、
「私たちのことを私たちで決める」
必要が生じます。
これが民主主義です。
国民主権は、国政について最終的に決定する権限が国民にあるということです。
これに対して民主主義は、その権限を持つ私たちが、「私たちのことを私たちで決める」ための制度です。
そして、その民主主義の根底にも自由があります。
「私のことを私で決める」。
そして、
「私たちのことを私たちで決める」。
どちらにも、自分に関わることを他者から一方的に決められない、という共通した考えがあります。
自由と民主主義、国民主権、政治、そして個人の尊厳は、それぞれ別々に存在する概念ではありません。
一人ひとりの個人を出発点として、一本につながっています。
政治は、どのように憲法の根本価値を具現するのか
では、政治は、どのようにして「一人ひとりが自由」という憲法の根本価値を、現実の社会に具現するのでしょうか。
まず、どのような社会を目指すのかを考え、そのための政策を形成する必要があります。
そして、その政策を実現するために必要な法律を制定し、必要な予算を配分し、それらに基づいて行政が政策を実施します。
つまり、
政策の形成 → 法律の制定・予算の配分 → 行政による実施
という流れです。
もちろん、現実の政治では、法律や予算上の制約を踏まえて政策が修正されることもあり、これらは相互に影響し合います。
しかし、法律を作ることや予算を配分すること自体が、政治の目的なのではありません。
まず、どのような社会を目指すのかという政策的な判断があり、その実現のための手段として、法律や予算、行政があります。
たとえば、働く人の自由や生活をどのように保障するのか。
子どもがどのような環境で育つことのできる社会をつくるのか。
高齢になっても安心して生活できる社会をどのようにつくるのか。
災害に遭った人をどのように支えるのか。
それぞれについて、目指す社会の姿を考え、そのための政策を形成し、必要な法律や予算を整え、行政によって実施していく。
この一連の作用を通じて、政治は憲法の根本価値を現実の社会に具現していきます。
どれほど立派な政策や法律を作っても、それが適切に運用されなければ、そこに込められた価値は現実のものにはなりません。
反対に、法律そのものに問題がなくても、その解釈や運用によって、人の自由が必要以上に制約されることもあります。
だからこそ、政策、法律、予算、行政について重要なのは、それらが存在することそれ自体ではありません。
それらが、「一人ひとりが自由」という憲法の根本価値を具現するために、合理的かつ適正に機能しているかどうかです。
地方自治も、憲法が予定する政治である
また、政治は、国会や政府だけで行われるものではありません。
私たちの生活に最も身近な地域にも政治があります。
日本国憲法は、第8章を「地方自治」とし、第92条で、地方公共団体の組織及び運営について「地方自治の本旨」に基づくことを求めています。
地方自治は、国が行政上の都合から地方に仕事を任せているだけの仕組みではありません。
地方自治そのものが、憲法によって保障された制度です。
地方自治の本旨は、一般に「住民自治」と「団体自治」という二つの要素から説明されます。
なかでも住民自治は、
「私たちのことを私たちで決める」
という民主主義を、地域社会において実践するものと捉えることができます。
この地域の道路をどうするのか。
学校や子育てをどうするのか。
高齢者をどう支えるのか。
公共交通をどうするのか。
地域の限られた財源を何に使うのか。
そこに暮らす人々に関わることを、その地域の人々の意思に基づいて決めていく。
しかし、ここでも、地域の多数者が決めれば、それだけでよいということにはなりません。
地方自治もまた、憲法の下にあります。
地域の意思決定も、国民一人ひとりの自由を尊重し、憲法の根本価値を具現するものでなければなりません。
したがって、地方自治は、単に「地方で物事を決めること」ではありません。
「私たちのことを私たちで決める」という民主主義を通じて、「一人ひとりが自由」という憲法の根本価値を、その地域の実情に即して具現していく政治です。
多数決が政治の目的ではない
もっとも、「私たちのことを私たちで決める」といっても、全員の意見が一致するとは限りません。
そこで民主主義社会では、多数決が重要な意思決定の方法となります。
多数決だけを見れば、
「私たち(少数者)のことを、あなたたち(多数者)が決める」
ということにもなり得ます。
多数者も自由です。
少数者も自由です。
そして、たった一人であっても、その人が「個人として尊重される」ことに変わりはありません。
多数決は、「私たちのことを私たちで決める」ために必要となる意思決定の方法です。
しかし、それは、少数者の自由を多数者の意思に従属させることを意味するものではありません。
政治の目的が、「一人ひとりが自由」という憲法の根本価値を具現することにあるのであれば、「多数が望んでいる」ということだけで、その決定が正当化されるわけではありません。
多数決によって決められたことであっても、その内容が合理性を欠き、一人ひとりの自由を不当に侵害するのであれば、憲法の根本価値に適合するものとはいえません。
民主主義は、数の力を使う制度ではあります。
しかし、
数の力そのものを正義とする制度ではありません。
多数決は、民主主義を実現するための手段です。
そして民主主義もまた、それ自体が最終目的なのではありません。
その根底にあるのは、あくまで、
「一人ひとりが自由」
という憲法の根本価値です。
政治と異なるベクトルを持つ司法
ここで、政治とは異なる役割を担う司法の存在にも触れておく必要があります。
政治を担う者には、社会全体について意思決定し、それを実現するための大きな権力が託されています。
しかし、権力は、ともすると行きすぎます。
とりわけ、多数者の意思を背景にした権力は強く、少数者、さらには、たった一人の自由を侵すこともあり得ます。
そこで、司法の役割が重要になります。
司法は、
「多数がそう決めたのだから仕方がない」
と言うために存在するのではありません。
政治の名のもとになされた決定が、国民一人ひとりの自由を侵害するものとなっていないかを、憲法に照らして審査する役割を担います。
政治を実現するために託された権力が、ともすると行きすぎ、憲法の枠を越えることがあります。
そのとき司法は、その権力を憲法の下に引き戻します。
多数者の意思に対して、たった一人の自由を守る。
その意味で、司法は、
「自由の最後の砦」
なのです。
政治の主人公は、私たち一人ひとり
政治について考えるとき、私たちは、つい「政治家が何をするか」を考えてしまいます。
しかし、順序は逆です。
政治家が政治の主人公なのではありません。
政治の主人公は、主権者である私たち一人ひとりです。
政治を担う者は、主権者である私たちから、その権限を託されています。
憲法は、その負託の仕組みを定めるとともに、託された権力が行きすぎることのないよう、その行使に歯止めをかけています。
そう考えると、選挙の意味も違って見えてきます。
選挙は、単に好きな政治家を選ぶための行事ではありません。
私たちの社会について意思決定する権限を、誰に託すのかを、私たち自身が決める行為です。
それは、
「私たちのことを私たちで決める」
という民主主義の実践です。
そして、その根底までたどれば、
「私のことを私で決める」
という自由に行き着きます。
自分の人生に関わる社会のあり方について、自分自身もその意思決定に参加する。
選挙権は、そのために私たち一人ひとりに保障された重要な権利です。
したがって、選挙について考えることは、政治家について考えることだけではありません。
究極的には、
「私のことを私で決める」
という、自分自身の自由について考えることでもあるのです。
だからこそ、政治の主人公は、政治家ではありません。
主権者である、私たち一人ひとりです。
政治とは何か
もう一度、最初の問いに戻ります。
政治とは何でしょうか。
私は、こう考えます。
政治とは、「一人ひとりが自由」という憲法の根本価値を具現することです。
政策を形成すること。
法律を制定すること。
予算を決めること。
行政が政策を実施すること。
そして、地域に暮らす人々が、自分たちの地域について意思決定する地方自治。
これらは、政治を実現するための重要な作用です。
しかし、
これらが行われれば、それだけで政治になるのではありません。
法律という形式をとっている。
予算が議会で議決された。
多数決によって決められた。
行政が適法な手続を踏んだ。
それだけで、ここでいう政治になるわけではありません。
それらが、憲法の根本価値に基づき、合理的かつ適正に行われ、
「一人ひとりが自由」
という価値を現実の社会に具現するものであって、初めて、ここでいう政治となります。
政治とは、権力を行使することそれ自体ではありません。
多数者の意思を実現することそれ自体でもありません。
国家の利益を追求することそれ自体でもありません。
その中心にあるのは、あくまで、一人ひとりの人間です。
自由とは、
「私のことを私で決めること」。
民主主義とは、
「私たちのことを私たちで決めること」。
そして政治とは、
「一人ひとりが自由」という憲法の根本価値を具現すること。
この三つは、別々の方向を向いているのではありません。
一人ひとりの人間を出発点として、一本につながっています。
それが、私の考える「政治」です。


