法教育の必要性

法律を覚えることが法教育なのか
「法教育」という言葉から、何を思い浮かべるでしょうか。
法律にはどのようなものがあるのか。
してよいこと、してはいけないことは何か。
トラブルに巻き込まれたとき、どのような法律を使えばよいのか。
こうした知識を身につけることにも、意味がないことはありません。
しかし、法教育の役割は、そこにはありません。
法律の知識を教えることや、「ルールだから守りましょう」と教えることを法教育と呼ぶのであれば、肝心なものが抜け落ちています。
なぜ、そのルールがあるのか。
そのルールは何を守ろうとしているのか。
そもそも、私たちはなぜ法という規範を持つ必要があるのか。
そこを考えなければ、法を学んだことにはならないのではないでしょうか。
だから、まず、本当に必要な法教育とは何なのかを考えてみたいと思います。
単独では見えないもの
少し、法から離れて考えてみます。
私たちは「時間」や「距離」という言葉を、ごく当たり前に使っています。
しかし、何一つ変化しない世界で、「時間が経過した」と認識することができるでしょうか。
時計も、振り子の運動や原子の振動など、ある変化によって別の変化を測っています。
距離についても考えてみます。
二つのものの間に距離があると定義することはできます。
しかし、その距離が「遠い」「近い」という意味を持つためには、移動したり、光が伝わったり、何らかの比較をしたりすることが必要になります。
時間も距離も、それだけを取り出して眺めていると、その意味が見えにくい。
変化や、他のものとの関係によって、初めてその輪郭が現れてきます。
これは物理学の理論を法律に当てはめようという話ではありません。
ただ、私たちが物事を理解するとき、単独で存在するものだけを見ていても、その意味が分からないことがあります。
他のものとの関係によって、初めて見えてくるものがある。
私は、自由についても同じことがいえるのではないかと思います。
自由は、社会の中で輪郭を現す
一人の人間だけを取り出して、「自由とは何か」と考えてみます。
そこに他者がおらず、社会も国家も存在しないとすれば、その人について「自由である」と言うことに、どれほどの意味があるでしょうか。
自由は、他者との関係、社会との関係、そして国家権力との関係が生じたとき、初めてその輪郭をはっきりと現します。
私は、自分のことを自分で決めたい。
しかし、目の前にいる人も、その人のことをその人自身で決めたい。
そこで初めて、
「私の自由」と「あなたの自由」
が現れます。
私は、自由を、
と考えています。
そして、私とあなたが接点を持てば、
「私たちのことを、私たちでどう決めるのか」
という新しい問題が生まれます。
私は、民主主義を、
と考えています。
そう考えると、民主主義は自由とは別のところから突然現れる制度ではありません。
一人ひとりの自由な主体が他者と出会う。
そこに「私たち」が生まれる。
そして、「私たち」のことをどう決めるのかという問題が生じる。
自由から民主主義が生まれるのです。
規範は、人間がつくったもの
社会が形成されれば、そこには規範が必要になります。
その規範は、どこかから突然与えられたものではありません。
人間がつくってきたものです。
人は社会の中でさまざまな経験をします。
争いが起こる。
不合理な扱いを受ける。
権力によって自由を奪われる。
その経験と反省から、新たな仕組みをつくる。
そうして、人間は規範をつくってきました。
しかし、一度つくられた規範が、そのまま形を変えずに人間の上に居座り続けるわけではありません。
人間が規範をつくる。
つくられた規範と人間が向き合う。
その規範によって、人間が自分自身や社会を見直す。
そして、その人間が再び規範を問い、必要であれば修正する。
そこには、
人間 → 規範 → 人間 → 規範
という、絶え間ない往復があります。
人間が規範をつくり、規範が人間を変え、その人間がさらに規範を変えていく。
そのやり取りを何度も繰り返すことによって、人間も規範も洗練されてきたのではないでしょうか。
規範は、自分自身を見るための鏡でもある
憲法には、個人の尊重、自由、平等など、私たちの社会が大切にしてきた価値が示されています。
それは単に、国家に対して「これを守りなさい」と命令するだけのものではありません。
私たち自身がその規範と向き合ったとき、そこから逆に問いかけられるものがあります。
私は、どのような存在として扱われるべきなのか。
目の前にいる他者は、どのような存在として扱われるべきなのか。
規範を知ることで、私たちは自分が自由な主体であることを知る。
そして同時に、目の前の他者もまた、自分と同じように自由な主体であることを知る。
そういう意味では、法は自由を守るだけではありません。
法という規範と向き合うことによって、私たちは自らの自由の輪郭を知ることができる。
そこにも、法の重要な意味があるのだと思います。
法の支配とは何か
「法の支配」という言葉があります。
これを、完成された正しい法律が存在し、人間がそれに従うことだと考えるなら、法は人間の外側にある固定されたものになります。
しかし、法も人間がつくったものです。
人間がつくったものである以上、誤ることもあります。
社会が変化すれば、それまで合理的だった規範が合理性を失うこともあります。
だからこそ、私たちは法そのものについても考えなければなりません。
なぜ、この法があるのか。
何を守ろうとしているのか。
この規制は合理的なのか。
誰かの自由を不当に奪ってはいないか。
そして、その規範は、憲法が大切にしている価値と整合しているのか。
そう考えると、
法の支配とは、完成した規範に支配される社会ではなく、私たちが規範と向き合い続ける社会である。
と言うことができるのではないでしょうか。
だから、法教育が必要になる
ここまで考えると、法教育が何を教えるべきなのかも見えてきます。
法律の名前を覚えることではありません。
条文を暗記することでもありません。
まして、
「ルールだから守りなさい」
と教えることではありません。
それだけでは、法に従う人を育てることはできても、法と向き合う人を育てることはできません。
法教育とは、
私たち自身がつくり、私たち自身を規律している規範と向き合うことによって、自分とは何者なのか、他者とはどのような存在なのか、そして私たちはどのような社会をつくろうとしているのかを考える。
そのための教育ではないでしょうか。
規範を知る。
規範を使う。
なぜその規範が存在するのかを考える。
そして、必要であれば規範そのものを問い直す。
その力がなければ、民主主義の社会に生きていても、私たちは自分たちの社会について自分たちで考えることができません。
フォーアウト論――「ルールを知らずに議論する」ということ
野球には、三つのアウトで攻守を交代するというルールがあります。
もし、そのルールを知らない人たちが、
「四つ目のアウトを取るべきだ」
「いや、五つ必要だ」
と真剣に議論していたら、どうでしょう。
その議論に決着をつける必要はありません。
そもそも、その議論は野球についての議論になっていないからです。
まず、野球というゲームを成立させているルールを知らなければなりません。
私は、社会についても同じことが起きているように感じることがあります。
政治について議論する。
社会制度について議論する。
権利や義務について議論する。
しかし、その前提となる、個人の尊重、自由、民主主義、法の支配といった、この社会を成立させている基本的な規範を知らない。
その状態で、右だ左だと議論しても、議論の座標軸そのものが定まりません。
私は、このように、その議論を成立させている基本的な規範を確認しないまま、その先の議論を続けてしまうことを「フォーアウト論」と呼んでいます。
野球なら、三つでアウトです。
四つ目のアウトをめぐって、どれほど精緻な議論を重ねても、その前提が間違っていれば意味がありません。
社会について考えるときも、まず、その社会を成立させている基本的な規範を知らなければならない。
法教育は、その出発点に立つための教育でもあるのです。
法を学ぶことは、社会の主人公になること
私たちは、法によって一方的に支配される存在ではありません。
法をつくる社会の構成員でもあります。
そして、法によって国家権力を規律する側でもあります。
だからこそ、法を知らなければなりません。
それは、法律を知らずに損をしないためだけではありません。
自分がどのような存在なのかを知るため。
他者がどのような存在なのかを知るため。
そして、
自分たちがどのような社会をつくるのかを、自分たちで考えるため。
そのためには、規範と向き合う力が必要です。
そして、私たちの社会におけるその規範が、法です。
だから私は、法教育が必要だと考えています。

