自由から民主主義へ ― 「私」から「あなた」、そして「私たち」へ

1 自由とは何か
自由とは何でしょうか。
一般に、自由とは、自分の好きなことができること、あるいは他者から干渉されないことなどと理解されています。
しかし、好きなことができるか否かは、様々な事情によって左右されます。また、他者からの干渉を受けないことだけで、自由の意味を説明できるのでしょうか。
この点については、以前の記事「自由とは何か。(1)自由概念の再構築によるパラダイムシフト」で論じていますが、リーガル・ウィンドは、自由を次のように考えています。
「私のことを私で決めること」
自分が何を望み、何を選択するのか。その意思決定の主体が自分自身であるということです。
では、私たちが、それぞれ自分のことを自分で決めようとした場合、互いの自由はどのような関係に立つのでしょうか。
2 自由は対立するのか
AさんとBさんが、一緒に遊ぼうとしています。
Aさんはテニスをしたいと考え、Bさんはバドミントンをしたいと考えています。
ところが、二人とも自分の希望を主張し、譲ろうとしません。
このままでは、テニスもバドミントンもできません。
そこで、Aさんが「分かった。今日はバドミントンをしよう」と言ったらどうでしょうか。
Aさんは、Bさんの希望を尊重することを、自分自身で決めたのです。
これによって、まずバドミントンをすることができます。
そして、Bさんが「私の希望を聞いてくれたのだから、今度はテニスをしよう」と考えれば、テニスもできるようになります。
もちろん、Bさんが必ずそのように考えるとは限りません。しかし、AさんがBさんの希望を尊重したことによって、それまで存在しなかった可能性が生まれたことは確かです。
ここで、もう一つ考えてみたいことがあります。
そもそも、テニスもバドミントンも、一人ではできません。
Aさんにとって、Bさんは、自分の希望と対立する存在であると同時に、自分の希望を実現するために必要な存在でもあるのです。
他者の存在は、私の自由を制約するだけでなく、私の自由な意思決定によって選び得る可能性を広げるものでもあるのではないでしょうか。
3 他者の自由を尊重するという規範
もっとも、AさんがBさんの希望を尊重したとしても、BさんがAさんの希望を尊重するとは限りません。
それでは、互いの自由を尊重する関係は、どのようにして成立するのでしょうか。
そのためには、それぞれが自由というものを理解する必要があります。
私が、自分のことを自分で決める自由な主体であるのと同じように、あなたもまた、自分のことを自分で決める自由な主体である。
そして、私があなたの自由を尊重するように、あなたもまた、私の自由を尊重する。
このような規範を、それぞれが自分自身の内面に持つ必要があるのです。
では、その規範は、どのようにして獲得されるのでしょうか。
単に「他人の自由を尊重しなさい」と教えられたからといって、自由を理解したことにはなりません。
なぜ他者の自由を尊重する必要があるのか。そのことを自分自身で考え、理解し、自らの規範として引き受けなければならないでしょう。
ここに、法教育の役割があります。
法教育とは、法律の知識を身につけたり、決められたルールに従うことを学んだりするだけの教育ではありません。
私たち自身がつくり、私たち自身を規律している規範と向き合うことによって、自分とは何者なのか、他者とはどのような存在なのか、そして私たちはどのような社会をつくろうとしているのかを考える。
そのような営みこそ、法教育の重要な役割であると考えます。
4 「私」から「あなた」、そして「私たち」へ
さて、他者の自由を尊重するという規範を身につけたとしても、直ちに相手の考え方を理解し、共感できるわけではありません。
むしろ、自分とは異なる考え方を持つ相手だからこそ、自由を尊重するという規範が必要になるのでしょう。
しかし、互いの自由を尊重するという実践を積み重ねていくと、そこに変化が生じる可能性があります。
初めは、規範に基づいて尊重していた相手に、信頼が生まれる。
相手の考え方を理解するようになり、共感が生まれる。
さらに、その思いが互いに響き合い、共鳴することもあるでしょう。
規範によって始まった関係が、規範だけでは説明できない関係へと変わっていくのです。
このような変化を、「昇華」と呼んでみたいと思います。
「私」から「あなた」へ。そして、「あなた」から「私たち」へ。
もちろん、互いの考え方が同じになるわけではありません。また、必ず共感や共鳴が生まれるわけでもありません。
それでも、異なる考え方を持つ者同士が、互いの自由を尊重しながら、共に生きていくことはできます。
そして、その関係の中に、私たちという共同体が生まれるのです。
5 自由から民主主義へ
ここで、民主主義について考えてみましょう。
リーガル・ウィンドは、民主主義を次のように考えています。
「私(たち)のことを私(たち)で決めること」
自由が「私のことを私で決めること」であるならば、民主主義は、自由な主体である私たちが、自分たちのことを自分たちで決めることだと考えられます。
では、私たちは、どのようにして共同の意思を決定するのでしょうか。
仮に、私たち全員が同じ考え方を持っているとすれば、意見の相違を調整するための議論は必要ありません。
しかし、現実の社会には、異なる考え方を持つ人々が存在します。
そして、その一人ひとりが自由な主体なのです。
そうであれば、民主主義における「私たち」とは、同じ考え方を持つ人々の集合ではなく、異なる考え方を持つ人々が、互いの自由を尊重しながら共同で意思決定する主体であると考えるべきでしょう。
そのために必要となるのが、議論です。
6 異なる意見の存在が持つ意味
国会を例に考えてみましょう。
国会には、異なる政治的立場や考え方を持つ議員が集まります。
それぞれが自分の意見を主張し、議論を行います。
では、異なる意見が存在することは、共同の意思決定にとって障害なのでしょうか。
確かに、意見が異なれば対立が生じます。議論がまとまらず、意思決定に時間がかかることもあるでしょう。
しかし、異なる意見が存在するからこそ、議論が必要になるのです。
自分の意見を説明し、相手の意見を聞く。
相手からの批判によって、自分の考え方の問題点に気づくこともあるでしょう。
あるいは、対立する意見を検討する中で、それまでのどちらの主張にもなかった、新たな考え方が生まれることもあります。
このように、異なる意見を戦わせることによって、それぞれの考え方が洗練される可能性が生まれるのです。
そうであるならば、異なる意見の存在は、単に許容しなければならないものではありません。
異なる意見が存在すること自体が、私たちの意思決定をより良いものにするための、積極的な意味を持っているのではないでしょうか。
もちろん、議論をすれば必ず優れた結論が得られるわけではありません。
相手の意見を聞こうとせず、自分の主張を繰り返すだけでは、考え方が洗練されることもないでしょう。
だからこそ、他者の自由を尊重するという規範が必要になるのです。
ここで、私たちは、自由についての最初の問題に戻ってきます。
他者の自由を尊重することは、互いの自由を実現するために必要である。
そして、他者が自分とは異なる考え方を持つことは、私たち自身の意思決定を洗練させる可能性を持っている。
つまり、他者の自由の尊重は、自由な社会を成立させるために必要であるばかりでなく、その社会をより豊かなものへと発展させる可能性をも持っているのです。
7 民主主義は面白い
ここまで考えてきて、改めて思うことがあります。
民主主義は、面白い。
自分とは異なる意見に出会い、その理由を考え、自分の考え方を問い直す。
相手の主張に反論し、さらに反論を受ける。
そうした議論を通じて、自分一人では思いつかなかった考え方に到達することがあります。
それは、単に対立する意見のどちらかを選ぶこととは異なります。
議論に参加する者自身が変わり、それまで存在しなかった新しい考え方が生まれることもあるのです。
私たちは、社会の規範をつくり、その規範によって自らを律しています。
しかし、規範は、一度つくれば完成するものではありません。
私たちは、規範と向き合い、議論を重ね、必要であればその規範を改めていきます。そして、その過程で私たち自身も変わっていくのです。
自由な主体が、互いの自由を尊重しながら議論を重ねる。
その議論によって、私たち自身も、私たちの社会も変わっていく。
民主主義の面白さは、まさにそこにあるのではないでしょうか。
リーガル・ウィンドは、あなたの自由を支援します。

