「美しい国」「強い国」とは何か

「美しい国」
「強い国」
いま、政治の世界で、こんな言葉が使われています。
今回は、この二つの言葉の意味を考えてみます。
美しいとは、何なのでしょうか。
強いとは、何なのでしょうか。
強いとは、力が大きいことなのか
強い国という言葉から、何を思い浮かべるでしょうか。
強い軍隊。
強い経済。
強い外交力。
他国から攻撃されても、それ以上の力で反撃できる国。
確かに、それも一つの「強さ」でしょう。
しかし、それだけが強さなのでしょうか。
相手が武器を持った。
だから、自分も武器を持つ。
相手がもっと強い武器を持った。
だから、自分はさらに強い武器を持つ。
相手が核兵器を持った。
だから、自分も核兵器を持つ。
この連鎖を、私は「強さ」と呼ぶことにためらいを覚えます。
そこにあるのは、
「相手が持っているから、自分も持つ。」
という反応だからです。
自分が何を正しいと考えるのか。
自分がどのような社会を作りたいのか。
自分が何を守り、何をしてはならないと考えるのか。
その判断より先に、相手の行動によって自分の行動が決められている。
それは、本当に「強い」のでしょうか。
怖いから持つ
もちろん、武器を持とうとすることには理由があります。
怖いからです。
攻撃されたくない。
支配されたくない。
殺されたくない。
その恐怖は、決して笑えるものではありません。
恐怖を感じること自体は、人間として当然のことです。
しかし、
恐怖を感じることと、
恐怖によって自分の行動を決められてしまうこと
は違います。
相手が武器を持ったから、自分も持つ。
相手が増やしたから、自分も増やす。
そうして双方が武器を増やしていけば、いつか安心できるところへ到達するのでしょうか。
相手より強くなれば安心する。
しかし、相手も同じことを考える。
相手がさらに強くなれば、また不安になる。
そして、また強くする。
これでは終わりがありません。
恐怖から逃れるために力を求めながら、力を求めることによって、さらに恐怖を大きくしていく。
奇妙な循環です。
「お花畑」と「覚悟」
平和主義について語ると、
「お花畑だ。」
と揶揄されることがあります。
「こちらが戦争をしないと言えば、相手も戦争をしないと思っているのか。」
「話し合えば何でも解決するとでも思っているのか。」
「現実を見ろ。」
そういう批判です。
しかし、前回の「安全保障とは何か」で書いたとおり、私が考えているのは、そんな話ではありません。
攻められる可能性はあります。
裏切られる可能性もあります。
自ら武器を制限することによって、危険が増す可能性さえあります。
その危険が見えていないのではありません。
見えているのです。
その上で、
それでも、自分はどうするのか。
を決める。
ここに必要になるものがあります。
覚悟です。
私には、「お花畑」と揶揄するときに見落とされがちなものこそ、この覚悟であるように思えます。
危険がないと思っているから、武器を持たないのではない。
危険があることを知っている。
それでも、自分が正しいと考えた価値を簡単には手放さない。
そして、その選択によって生じ得る結果まで引き受ける。
私は、そこに別の意味での強さの本質を見るのです。
強さは、覚悟から生まれる
強い人とは、何でしょうか。
殴られたら、もっと強く殴り返す人でしょうか。
武器を向けられたら、もっと大きな武器を取り出す人でしょうか。
私は、それだけを強さとは思いません。
怖い。
逃げたい。
自分だけは助かりたい。
そう思う状況であっても、
自分が正しいと考えたことを、自分で選ぶ。
そして、その結果から逃げない。
覚悟をもって自分で決める。
そこには、腕力とは違う強さがあります。
相手の行動によって決められるのではありません。
周囲の声によって決められるのでもありません。
恐怖によって決められるのでもありません。
私のことを、私が決める。
私は、そこに人間の強さを見るのです。
武士道とは何だったのか
前回の記事で、私は「武士道」という言葉を使いました。
武士道という言葉から、刀や戦いや勇猛さを連想する人もいるでしょう。
しかし、私がそこに見ているものは、それとは少し違います。
自らが正しいと信じたものを守る。
危険だからといって、簡単に信念を変えない。
そして、自ら選択した結果を、自ら引き受ける。
覚悟です。
相手が刀を抜いた。
だから自分も慌てて刀を抜く。
相手が大きな刀を持った。
だから、もっと大きな刀を探し回る。
それを「強さ」と呼ぶことにも、「武士道」と呼ぶことにも、私は違和感があります。
むしろ、
相手が何を持っているかとは別に、
自分はどうあるべきなのか。
を自分で決める。
そこにこそ、私が「武士道」という言葉に感じるものがあります。
美しさとは何か
覚悟は、「美しさ」にもつながります。
美しさは、華やかさなど、外面的なものではありません。
大きさでもありません。
力を誇示することでもありません。
少なくとも、私が人間に感じる美しさは、そういうものではありません。
自分に不利益がないときだけ、正しいことを言う。
自分が安全なときだけ、理想を語る。
危険が迫った途端に、それまで大切だと言っていた価値を捨てる。
そこに、私は美しさを感じません。
反対に、
危険がある。
不利益もある。
それでも、
「私は、こうありたい。」
と決める。
そして、その決定を自分で引き受ける。
私は、そこに美しさを感じます。
だから、
覚悟は、強さにつながる。
そして、
覚悟には、美しさがある。
そう思うのです。
日本国憲法の美しさ
日本国憲法前文には、「崇高」という言葉が実際に使われています。
日本国民が「恒久の平和を念願し」、人間相互の関係を支配する「崇高な理想」を自覚するとし、そのうえで「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」安全と生存を保持しようと決意しています。そして最後には、国家の名誉にかけて、その理想と目的を達成すると誓っています。
私は、この文章を美しいと思います。
それは、
「世界中の人間は善人だから安心だ。」
と書いてあるからではありません。
そんなことは書いてありません。
人間が戦争をすることを知っている。
国家権力が暴走することも知っている。
その惨禍を経験した上で、
それでも、別の世界を選ぶ。
そう決めているからです。
ここにも、覚悟があります。
そして、その覚悟があるからこそ、私はこの憲法を強いと思うのです。
憲法前文は、政府の行為によって再び戦争の惨禍を起こさせないという決意、国民主権、諸国民との協和、そして平和のうちに生存するという理念を一つの文章の中で結び付けています。
力が強いから、強いのではない。
自らが守る価値を決め、その価値のために自らの力まで拘束することができる。
そこに私は、別の強さを見るのです。
「美しい国」「強い国」
では、「美しい国」とは何でしょうか。
「強い国」とは何でしょうか。
軍事力が大きな国。
経済力が大きな国。
世界に対して強い言葉を発する国。
そういう答えもあるでしょう。
しかし、私は別のところを見たいと思います。
その国で、一人ひとりの人間が自由に生きることができるか。
国家権力が人間を犠牲にしていないか。
危険を理由として、自由を簡単に手放していないか。
恐怖を理由として、自らが正しいと考えてきた価値を捨てていないか。
そして、
自ら選んだ価値を守る覚悟があるか。
私は、そこに「強さ」や「美しさ」という言葉を使いたいと思います。
国ではなく、人間を見る
しかし、ここまで書いてきて、最後に一つ引っ掛かります。
そもそも、
国を「美しい」「強い」と形容する必要があるのでしょうか。
国家は、人間が作った仕組みです。
領土そのものが美しいのでも、国家権力そのものが強くあるべきなのでもありません。
そこに生きているのは、一人ひとりの人間です。
だとすれば、本当に問うべきなのは、
「美しい国とは何か。」
ではなく、
「美しく生きるとは何か。」
なのかもしれません。
「強い国とは何か。」
ではなく、
「強く生きるとは何か。」
なのかもしれません。
そう考えると、答えはまた、一人の人間へ戻ってきます。
周囲がどう言うかではない。
相手が何をするかでもない。
恐怖に何をさせられるかでもない。
私は、どう生きるのか。
それを自分で決める。
そして、その決定を引き受ける。
そこに、覚悟がある。
そこに、強さがある。
そして私は、
そこに、美しさがあると思うのです。


