安全保障とは何か

安全保障と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
中国、ロシア、北朝鮮、アメリカ。
ミサイル、戦闘機、軍艦。
そして、自衛隊、防衛費、日米同盟。
安全保障について語るとき、私たちはごく自然に国境の外を見ます。
日本をどう守るのか。
外国から攻撃されたらどうするのか。
しかし、私は、この問いの立て方そのものに疑問を感じています。
私たちは、いったい何を守ろうとしているのでしょうか。
国家を守ることが安全保障なのか
一般に安全保障は、国家と国家との関係として語られます。
日本と中国。
日本とロシア。
日本と北朝鮮。
そこには、「こちら側」と「あちら側」があります。
しかし、少し視点を変えてみます。
日本政府には、日本国民の生命や自由を大きく左右する力があります。
中国政府にも、中国で暮らす人々の生命や自由を大きく左右する力があります。
アメリカ政府も同じです。
国家が違っても、この構造は変わりません。
権力を行使する者がいて、その権力によって生命や自由を奪われる可能性のある人間がいる。
そう考えると、安全保障について別の景色が見えてきます。
国民にとって、国家権力に、自国も他国もないのです。
もちろん、外国政府による武力侵攻は重大な危険です。
しかし、自国政府によって戦争に動員され、自由を制限され、生命を危険にさらされることもまた、重大な危険です。
外国の国家権力だけが危険で、自国の国家権力は私たちを守ってくれる存在である。
そんな単純な関係ではありません。
日本対中国、ではない
ここで、もう一度、安全保障を見る座標軸を変えてみます。
「日本対中国」
ではなく、
「国家権力と、一人ひとりの人間」
という軸です。
日本の権力者と中国の権力者が対立しているとき、その対立によって生命を失うのは誰でしょうか。
多くの場合、権力者自身ではありません。
日本で暮らす人であり、中国で暮らす人です。
戦況が優勢な国の国民であるか、劣勢な国の国民であるかという違いはあります。
しかし、戦争によって生命や生活や自由を奪われるという意味では、どちらの国の人々も被害を受け得ます。
もちろん、民主主義国家においては、国民は単なる国家権力の客体ではありません。
主権者として政治に参加し、代表者を選び、国家の意思形成に関与します。
したがって、戦争を選択した国家について、国民の政治的責任を全く考えなくてよいという話でもありません。
それでも、実際に国家権力を行使し、戦争という巨大な暴力を決定し、遂行する立場にある者の責任が重いことに変わりはありません。
だから私は、安全保障を国家対国家という構図だけで考えることに違和感を覚えるのです。
戦争は自然災害ではない
「人類の歴史は戦争の歴史だ。」
「戦争をなくすことなどできない。」
「人間がいる限り、戦争はなくならない。」
私は、こうした言葉を聞くたびに不思議に思います。
なぜ、戦争をそんなに難しいものにしてしまうのでしょうか。
戦争をしないことは、本来、とても簡単なことです。
戦争をしないと決めて、しなければよいのです。
戦争を始めようとしているのであれば、始めない。
戦争に至りそうなのであれば、戦争には至らせないと決め、そのために行動する。
そして、自らが続けている戦争であれば、やめると決め、やめるために行動する。
とても単純な話です。
そして、本来は、とても簡単な話なのです。
もちろん、戦争には相手があります。
一方が戦争を望まなくても、他方から武力を行使されることはあります。
だから私は、「戦争をしないと決めれば、世界中の戦争がその瞬間に消滅する」などと言っているのではありません。
私が言いたいのは、もっと単純なことです。
少なくとも、自分が戦争を始める必要はない。
自分が戦争を拡大する必要もない。
自らの意思で戦争を続けることを、避けられない宿命と考える必要もない。
戦争は、台風とは違います。
台風に向かって、
「来ないと決めよう。」
と言っても、台風は来ます。
地震に向かって、
「今日は揺れないことにしよう。」
と言っても、地震は起きます。
自然災害は、人間の意思によって発生するものではないからです。
しかし、戦争は違います。
戦車は、自分で国境を越えません。
戦闘機は、自分で飛び立ちません。
ミサイルは、自分の意思で発射されません。
人間が命令し、人間が動かし、人間が発射するのです。
そして、その前には国家としての意思決定があります。
人間が始めるのです。
であるならば、
人間が始めなければよい。
人間が続けているのであれば、
人間がやめればよい。
私は、これほど単純なことを、なぜ人類が「ほとんど不可能なこと」であるかのように語り続けているのか、不思議でなりません。
「人類は昔から戦争をしてきた。」
それは事実でしょう。
しかし、それが何だというのでしょう。
過去の人間が繰り返し愚かな選択をしてきたという事実は、現在の私たちも同じ選択をしなければならない理由にはなりません。
むしろ、
「人類は戦争をやめられない」
という諦めこそが危険なのではないでしょうか。
戦争は避けられない。
戦争はなくならない。
人間とはそういうものだ。
そう考えてしまえば、戦争を始めようとする権力者が現れたときにも、
「仕方がない。」
という余地を与えてしまいます。
しかし、仕方がないことではありません。
戦争をするか、しないか。
それを決めるのは人間です。
だから、戦争を回避するために必要な第一歩は、途方もなく高度な思想でも、奇跡でもありません。
戦争をしないと決めることです。
そして、その決定を実行することです。
問題は、人間にそれができないことではありません。
できるのに、しないことです。
だからこそ、私は法に意味があると考えます。
人間が過去に何度も愚かな選択をしてきたのであれば、その愚かさを「人間の宿命」と呼んで諦めるのではない。
その愚かさに理性を吹き込む。
「ここから先には行ってはいけない」と、あらかじめ決めておく。
そして、権力を持った者であっても、その決定を簡単には覆せない仕組みにしておく。
人間の理性によって、人間の愚かさを拘束する。
それが法であり、国家権力との関係でその役割を担うものが、憲法なのです。
人間が常に理性的だから、ではない
では、権力者が理性的に判断すればよいのでしょうか。
それだけでは足りません。
人間は理性的に考えることのできる存在ですが、常に理性的であるとは限らないからです。
恐怖に支配されることがあります。
怒りに支配されることがあります。
集団の熱狂に巻き込まれることもあります。
「敵が来る。」
「危険が迫っている。」
「今は非常時だ。」
そう言われたとき、平時なら認めなかったはずのことを認めてしまうことがあります。
だからこそ、法が必要になります。
その時になって理性的に判断することだけを期待するのではない。
理性的でいられるときに、将来の自分たちが越えてはならない線を決めておく。
権力者が善人であることを期待するのでもない。
善人であっても越えられない線を引いておく。
それが、憲法によって国家権力を拘束するということの重要な意味だと私は考えています。
憲法9条は誰に向けられた規定なのか
ここで憲法9条を考えてみます。
9条について、
「9条があっても外国から攻撃されたら何の役にも立たない。」
という趣旨の主張があります。
しかし、ここでも一度、問い直す必要があります。
憲法9条は、そもそも誰を拘束する規定なのでしょうか。
中国政府でしょうか。
ロシア政府でしょうか。
北朝鮮政府でしょうか。
違います。
9条は、日本国憲法の規定です。
第1項は「国権の発動たる戦争」を放棄し、第2項は戦力の不保持と国の交戦権の否認を定めています。
9条は、外国政府に向かって、
「日本を攻撃するな」
と命令している規定ではありません。
日本の国家権力を拘束する規定です。
ここを取り違えてはいけないと思うのです。
「役に立たない」のではなく、役割が違う
憲法9条によって外国政府の行動を直接拘束することはできません。
だから、
「9条では外国を止められない。」
その限りでは、そのとおりです。
しかし、そこから、
「だから9条は安全保障の役に立たない。」
という結論が当然に導かれるわけではありません。
それは、9条に別の仕事をさせようとして、その仕事ができないから役に立たないと言っているようなものです。
9条が拘束しているのは、まず日本の国家権力です。
そして日本国憲法前文には、
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」
という決意が明記されています。
憲法が警戒している危険は、国境の外にだけ存在するのではありません。
自らの政府の行為によって戦争の惨禍を招くこともまた、憲法が明示的に想定した危険なのです。
外の犬が怖いから、こちらの犬を自由にするのか
前回、私は「緩い鎖」という寓話を書きました。
危険な犬を飼わざるを得なくなった家族が、その犬を短く重い鎖で繫いでいました。
犬を苦しめるためではありません。
家族を守るためです。
ところが、近所に危険な人物がいるという噂が流れます。
飼い主は考えます。
この犬の攻撃力を、外敵から家族を守るために利用できないか。
そこで鎖を緩めます。
しばらくは何も起こりません。
犬は役に立ちそうです。
もっと自由にしても大丈夫そうです。
そして本当に危険と思われる事態が発生したとき、飼い主は犬をほとんど自由にします。
犬は侵入者を襲いました。
そして、その後、飼い主にも襲いかかりました。
そこで初めて気付くのです。
鎖は何のためにあったのか。
外にいる敵が怖い。
だから、こちら側の犬を強くしよう。
もっと自由に動けるようにしよう。
しかし、その犬は本当に、こちら側の存在なのでしょうか。
犬は犬です。
鎖を外せば、外だけを向いてくれる保証などありません。
国家権力についても、同じ問いを発する必要があると思います。
本当の安全保障
私は、外国からの脅威を考える必要がないと言っているのではありません。
外国政府による軍事力もまた、人間の生命と自由を奪い得る国家権力だからです。
しかし、それならなおさら、国境によって善悪を分ける必要はありません。
日本政府による権力行使であっても、
中国政府による権力行使であっても、
アメリカ政府による権力行使であっても、
問うべきことは同じです。
その権力は、一人ひとりの人間の自由を侵害していないか。
ここで見るべきものは、国家そのものではありません。
人間です。
一人ひとりの人間です。
私は、安全保障もここから考えたいのです。
銃口の向こうだけを見ない
私たちは、外から銃口を向けられれば警戒します。
当然です。
しかし、外ばかりを見ている間に、自分の背後に巨大な力を作り上げてはいないでしょうか。
「外敵から守るためだから。」
「非常時だから。」
「安全保障のためだから。」
そう言って、その力を拘束していた鎖を、一つずつ外してはいないでしょうか。
そして、いつしか振り返ったとき、
その力がこちらを向いていたとしたら。
その時になって、
「こんなはずではなかった。」
と言っても遅いのです。
だから、私は安全保障について考えるとき、まず外を見ません。
最初に、すぐそばにいる国家権力を見ます。
それは外国を信用しているからではありません。
人間を過信しないからです。
そして同時に、人間の理性を信じているからです。
人間は、自分たちの作った巨大な力を法によって拘束することができる。
戦争を避けるべきものと決め、そのための仕組みを作ることができる。
権力に鎖を掛けることができる。
その鎖こそ、憲法です。
問題があるように見えるかもしれません。
国家の行動を不自由にしているように見えるかもしれません。
しかし――
問題があるように見えて、あるべき状況なのです。
それが、私の考える安全保障です。


