生命権
人間の「生命」を法がどのように規定しているのかをみると、1776年のヴァージニア権利章典、同年のアメリカ独立宣言、1948年の世界人権宣言、1949年のドイツ憲法にあたるボン基本法、1950年の欧州人権条約、1966年の市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)、1989年の死刑廃止条約(死刑の廃止を目指す市民的及び政治的権利に関する国際規約の第二議定書)、2002年の欧州人権条約第13議定書、2002年に効力が発生した国際刑事裁判所に関するローマ規定等々において、個人の権利(生命権)として規定しています。
日本の法体系においては、日本国憲法において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(憲法13条)、「生命もしくは自由を奪われ」(憲法31条)とあるように、生命を自由と区別し、個人の権利(生命権)として観念していると解釈されています。興味深いのは、権利(人権)と同義の自由と生命を区別して観念しているにも関わらず、生命について権利的に観念している点です。このことは、日本国憲法に限らず先に挙げた世界的な法文においても同様です。
なぜ、生命と自由を分けて規定するのか(自然権の内容も生命と自由は分かれています。)、それは、生命が自由の土台的存在であるからなどと解釈されています。生命がなければ自由も存在しないのですから当然でしょう。それではなぜ、こういった生命と自由の質的な違いを認識していながら、生命権などとして生命を自由(人権)の枠に押し込むような解釈を行うのでしょうか、私には理解できません。
人間が生命をコントロールすることはできません。コントロールできないのですから人間には生命を自由に支配する権限がありません。この点、誕生や延命について考えればコントロールなどできないことが理解できますが、人間社会には殺人、殺戮、死刑などが蔓延しているため、コントロール可能な一面(生命の消失)もあるのではないかと思われるかもしれません。しかし、そんな一面のみをもって人間が生命をコントロールしているなどとは到底いえませんし、なにより、殺人、殺戮、死刑などは人間が権限を逸脱した行為を行ってしまっているにすぎないのです。この状態をたとえれば無免許運転です。権限を有していないが、できるからやってしまっているわけです。これが行き過ぎると人類は滅亡します。脱線しますが、以前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが流行したように思いますが、その答えは簡単です。「人に人を殺す権限などないから」です。
また、生命は自由の土台的存在と先述しましたが、自由が生命を土台にして成り立つ以上、生命を自由にできないことは論理上当然といえます。人間には、権限外であるけれどもやろうと思えばできてしまう生命の消失を巡って、様々な議論がなされてきた歴史があると思います。権限外であることを薄々気付いていながら、崇高な生命を散々蹂躙してきたのですから、その度に生じたためらいや後悔が議論を生んだのでしょう。そうした議論から、死刑廃止に代表されるように、人間が生命を支配する権限などないのだということに、人間の理性がもっと早く到達すべきだと思うのですが、途上のようです。
変な言い方ですが、人間を分析すると、先述したように生命を土台として、身体、人格(精神)が機能しているといえます。つまり、人間の生体は、生命、身体及び人格(精神)に区分けして認識することが可能です。区分けして考えることで、個人への無用な干渉を減らすことができると考えます。たとえば、骨折している個人に対して医療的手当をせずに精神論を吹き込むようなことはいけませんというように。我々は、身体と人格の区分け(もちろん連関する場合もあります。)については無意識のうちに認識しているようですが、その両者と生命との区分けについては、ほとんど意識してこなかったように思うのです。
生命とは、有るか無いかの存在であって、自然科学的な現象です。また、比喩すれば無色透明な現象です。良い生命、悪い生命、価値ある生命、価値のない生命などといった性質を有していません。誰の生命も均等に同じ崇高な価値を持つものです。善良なる人の生命も、凶悪殺人犯の生命も互いに等価値で存在しています。凶悪などという性格を帯びるのは人格(精神)であって、凶悪な人格は存在しても、凶悪な生命は存在しません。昨今の風潮としては、国民の感情や感覚を基にして厳罰化への動向が顕著です。しかし、たとえば凶悪殺人犯を死刑にすることは、無色透明な生命をまた新たに1つ消失させるにすぎません。刑によって禁止したことを、罰によって繰り返してしまっているのです。
以上から、法において生命をどう観念すべきなのかを考えてみますと、法は生命を現象のまま観念すべきであって、生命に対する権利を観念すべきではないと考えます。それは、生命権を観念することで、生命侵害のリスクが高まると考えるからです。なぜなら、権利性を観念した瞬間に制限が可能となるからなのです。たとえば、先に挙げた憲法13条においては、生命に対する国民の権利は「公共の福祉に反しない限り」最大の尊重を必要とする、とされていて、これを言い換えれば、公共の福祉に反した場合には生命に対する国民の権利を制限できることになるのです。同様に、憲法31条は、何人も「法律の定める手続によらなければ」生命を奪われない、としていて、これも言い換えれば、法律の定める手続によれば、生命を奪うことも可能となるのです。この理屈は、死刑の合憲性についての最高裁のリーディング・ケースである最大判昭和23年3月12日(刑集2巻3号191頁)で用いられ、死刑が合憲であることの根拠とされています。
また、生命権とすることで、その生命を授かっている個人の人格との関連性が生じてしまい、無色透明な生命が着色されて認識されてしまうおそれを危惧します。すなわち、凶悪殺人犯の生命権など保障する必要がないといった言説の根拠となってしまうことを危惧するのです。
そこで、法は生命を現象としてそのまま観念し、生命を絶対不可侵なものとすべきなのです。言い方を変えれば、個人(身体及び人格)と生命を切り離して、生命のみを対象として保障すべきなのです。制度的保障ではないですが、生命(現象)を絶対不可侵とすれば、当然ながら「個人の」生命も保障されることになります。もし、憲法を改正するというのならば、人(国民に限らず)の生命を絶対不可侵とする条項を加えるべきでしょう。そうすれば様々な方面に渡って国家権力を強力に制限することとなるでしょう。
生命と法の関係については、正当防衛、安楽死など、他に考えるべき事項があるのですが、それらの点については、またの機会に。