思想及び良心の自由についての考察(2)_「誓約書を書いてください」に、私はなぜ違和感を持つのか
以前、このホームページで「思想及び良心の自由についての考察(1)」という記事を書きました。
その続きを書こうと思いながら、ずいぶん長い時間が経ってしまいました。
今回取り上げる「誓約書」は、まさにその続きを書こうとしていた問題です。
行政書士として許認可業務に携わっていると、行政機関から「誓約書」の提出を求められることがあります。
申請者は、それを特に不思議には思いません。
役所から求められた書類なのだから、署名して提出すればよい。
行政書士も、必要書類の一つとして依頼者に署名をお願いする。
それで手続は進みます。
しかし私は、行政書士として実際に行政手続に携わるようになってから、この「誓約書」というものに、ずっと大きな違和感を持っています。
なぜ行政は、人に「誓わせる」のでしょうか。
守るべきことを守らせるのは当然です
誤解のないように最初に申し上げておきます。
法律によって一定の行為が禁止されているのであれば、その禁止に従わなければなりません。
営業許可に設備基準があるのであれば、その基準を満たさなければなりません。
行政が法令を適正に執行することにも、当然、異論はありません。
私が疑問を持っているのは、そこではありません。
たとえば、ある設備が許可基準に適合していないとします。
行政の目的が、その設備によって生じる弊害を防止することなのであれば、設備を是正させればよい。
その是正によって目的が達成されるのであれば、それで行政目的は実現しています。
ところが、そこでさらに、
「今後このようなことはしません」
という趣旨の誓約書まで提出させる。
私はここで立ち止まります。
その誓約書は、行政目的の達成に何を付け加えているのでしょうか。
実際に「それは必要なのですか」と意見したことがあります
風俗営業許可の仕事で、見通しを妨げる設備に関する問題が生じたことがあります。
一定の高さを超える設備について是正を求められ、それとともに誓約書の提出も求められました。
私は意見書を提出しました。
設備基準が設けられている目的は何なのか。
設備を是正することによって、どのような効果が生じるのか。
そして、その目的と効果が設備の是正によって実現するのであれば、さらに誓約書を提出させることによって、何が新たに実現するのか。
その点を行政側に問いかけました。
誓約書を書かせなければ達成できない行政上の目的があるのであれば、その必要性を説明すればよいと思います。
しかし、そこに合理的な意味を見いだせないのであれば、
「昔からそうしているから」
「皆さんに出してもらっているから」
という理由だけで、人に誓約を求めることはやめるべきです。
私はそう考えています。
「たかが一枚の誓約書」なのでしょうか
おそらく、多くの方はこう思われるでしょう。
「そんなに難しく考えなくても、書けばいいじゃないか。」
確かに、署名するだけなら数秒です。
それで許可が得られるのであれば、申請者にとっても、その方が楽でしょう。
しかし、ここに私が問題を感じる理由があります。
日本国憲法19条は、
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
と定めています。
非常に短い条文です。
けれども、私は、この規定は日本国憲法の中でも極めて重要な位置を占めるものだと考えています。
以前の「思想及び良心の自由についての考察(1)」で、私は、自由を「私のことを私で決めて、決めたように行動すること」と捉えました。
そして、思想及び良心とは、その自己決定に方向を与える、私たちの内心にある「決定規範及び決定過程」なのではないかと考えました。
何を正しいと思うのか。
何を間違っていると思うのか。
何を信じるのか。
そして、それらをもとに、自分のことをどう決めるのか。
思想及び良心は、その人の自己決定の基礎にあるものです。
だからこそ、国家はそこへ安易に入り込んではならない。
思想及び良心の自由が重要なのは、単に「心の中で何を考えてもよい」ということだけではないと、私は考えています。
「行動してください」と「誓ってください」は同じではありません
ここが、私が最も伝えたいところです。
行政が、
「この設備を撤去してください」
と求めることと、
「この設備を置かないと誓ってください」
と求めることは、同じではありません。
前者は、外部の行為を求めています。
後者は、それだけではありません。
本人自身の意思として、「私はそうします」と表明することを求めています。
法律によって一定の行為を義務付けることと、その法律に従う意思まで本人に表明させることとは別の問題です。
法律には従わなければならない。
しかし、
法律に従うことと、法律に従うと誓うことは違う。
ここで問題になるのは、まさに以前の記事で考えた「決定規範及び決定過程」なのではないでしょうか。
行政が人の行動を法令に従わせることと、その人自身に「私はそれを正しいものとして受け入れ、そう行動します」という意思を表明させることとの間には、一線があるはずです。
私は、この区別をもっと大切にすべきだと思っています。
法令に書いてあれば、それで問題はなくなるのでしょうか
さらに難しい問題があります。
行政実務上の慣行として誓約書を求めているだけではなく、法令そのものが誓約書の提出を要求している場合があります。
そうなると、
「法律に書いてあるのだから仕方がない」
と思われるかもしれません。
しかし、日本国憲法は法律より上位の法です。
法律に書いてあるということは、憲法上の問題がなくなる理由にはなりません。
むしろ、その法律自体が憲法に適合しているのかという、もう一つ上の問いが生まれます。
私は、行政が国民に一定の内容を「自分の意思として誓わせる」ことを法令によって義務付ける制度についても、思想及び良心の自由との関係で、憲法上の問題を生じさせ得ると考えています。
少なくとも、
なぜ「確認」では足りないのか。
なぜ「申告」では足りないのか。
なぜ「遵守を求める」だけでは足りないのか。
なぜ、本人に「誓約」させなければならないのか。
その必要性は、厳しく問われなければならないと思います。
行政書士になって、見えるようになったもの
私は、行政書士になる以前から法律を学んできました。
しかし、実際に行政書士となって許認可行政の現場に入って初めて見えてきたものがあります。
法律の教科書には、行政法の原則が書いてあります。
憲法の教科書には、基本的人権が書いてあります。
ところが実際の行政手続の現場では、
「この書類も出してください」
「ここに署名してください」
「皆さんにお願いしています」
という、とても穏やかな言葉によって手続が進んでいきます。
だからこそ、問題が見えにくい。
行政から何かを求められたとき、私たちはつい、
「役所が言うのだから」
「そういう決まりなのだから」
と思ってしまいます。
かつての言葉でいえば、「お上が言うのだから」という感覚が、形を変えて今もどこかに残っているのかもしれません。
しかし、私は行政書士として、その感覚には立ち止まりたいと思っています。
行政は、国民の上にあるのではありません
憲法が基本的人権を保障し、その基本的人権を実現するために統治の仕組みが置かれている。
人権と統治は、目的と手段の関係にあります。
そう考えれば、行政と国民との関係も見え方が変わります。
行政は国民の上にあって、国民に従うことを誓わせる存在ではありません。
行政権もまた、憲法によって作られ、憲法によって拘束されている国家作用の一つです。
だから私は、行政から「誓約書を書いてください」と言われたとき、
ただ一枚の必要書類として処理する前に、
「なぜ、この人は誓わなければならないのだろう」
と考えたい。
必要な規制には従う。
合理的な行政目的のために必要な協力もする。
しかし、人の意思や良心に踏み込む必要のないところまで、行政が踏み込むことを当然とは考えない。
その小さな区別の積み重ねが、法による行政というものだと私は思っています。
「思想及び良心の自由についての考察(1)」を書いたとき、私はこの問題を、主として憲法理論の方向から論じていました。
それから時間が経ち、その間も行政書士として、数多くの行政手続に携わってきました。
その上で、今、改めて次のように表現したいと思います。
憲法上の人権というと、私たちの日常生活から離れた、大きく抽象的な問題のように感じられるかもしれません。
しかし、人権の問題は案外、
「この書類に署名してください」
という、行政手続の中で交わされる何気ない一言の中に潜んでいるのかもしれません。
それに気づき、必要に応じて、「なぜですか」と問いかけること。
それもまた、行政手続の専門家である行政書士の仕事の一つである。
私はそう考えています。


