投票することの意味
存在証明と同義
私は、自由とは「私のことを私で決めること」だと考えています。
私たちは、毎日の生活の中で、絶えず自分のことを自分で決めています。今日どの服を着るのか。何を食べるのか。どこへ行くのか。誰と話すのか。そうした一つひとつの選択を重ねながら、私たちは自分の人生を生きています。
選挙における投票も、その意味では同じです。
民主主義とは、「私たちのことを私たちで決めること」です。選挙における投票は、その「私たち」の一人として、私が自分の意思を示す行為です。
だから、投票することは、何か特別な政治行為である以前に、私が私として社会に存在し、自分のことを自分で決めていることの表明でもあります。
今日着る服を自分で選ぶように、私は投票する。
誰かに命じられたからするのでも、投票しなければ叱られるからするのでもありません。私が自由な主体としてこの社会に存在しているから、私は自分で考え、自分で選び、自分の意思を一票として示すのです。
その意味で、投票することは、民主主義社会における自由な市民としての存在証明なのだと思います。
※投票することそれ自体がなぜ必要なのかについては、「選挙に行く理由」で詳しく述べています。
他者の自由を阻止する力
しかし、今日着る服を選ぶことと、選挙で一票を投じることには、決定的な違いがあります。
今日どの服を着るかという私の選択は、基本的には私自身に返ってきます。ところが、投票はそうではありません。私が投じた一票は、他の人が投じた一票と集積され、代表者を選び、政策を決め、社会を動かします。その結果は、私だけではなく、あなたにも及びます。
つまり、投票には、投票者である「私」が、私とは違う選択をした「あなた」の自由を阻止する力があります。
私はこれまで、自由とは「私のことを私で決めること」だと述べてきました。そして、私に「私のことを私で決める」という自由があるのと同じように、あなたにも「あなたのことをあなたで決める」という自由があります。
そうであるならば、私が一票を投じるとき、その一票によって影響を受けるあなたのことを考えないわけにはいきません。
対立する主張を持つ人が、どのような環境で生きているのかを考えてみる。自分が同じ立場だったらどう感じるのかを想像してみる。異なる意見に耳を傾け、自分の考えに誤りはないか、弱点はないか、方向がずれてはいないかを問い直してみる。そして、自分の選択が実現したとき、それによって他者の自由がどのような影響を受けるのかを考えてみる。
それでも最後は、自分で決めます。
他者に配慮するということは、他者に従うことではありません。異なる意見に触れ、その影響を受け、ときには自分の考えを修正しながら、それでも最後は、自分で考え、自分で決める。
だからこそ、人気に流され、その場の感情に支配されたまま投票することや、自分が属する組織から促されるままに投票することには、私は強い危惧を感じます。
問題なのは、投票したことではありません。自分で決めていないことです。
投票は、「私のことを私で決める」という自由の行使であるはずです。それなのに、誰かの意向に従って投票先を決めるのであれば、形式上は自分で投票用紙に候補者名を書いていても、その意思決定をしたのは自分ではありません。それでは、「私のことをあなたが決める」ことになってしまいます。
しかも、その一票は、その人だけの問題では終わりません。他の一票と集積され、社会を動かし、その組織とは何の関係もない人の自由にまで作用します。自分で考えることなく投じられた一票によって、よく考え、自分自身の判断として別の一票を投じた人の自由まで奪われることがあるのです。
まして、経済力や組織上の力関係を梃子にして、個人の投票行動を事実上支配しようとするのであれば、私はそのような団体の存在を民主主義にとっての害悪だと考えます。
経済社会における力の大小と、民主主義における一人ひとりの意思の価値とは、区別されなければなりません。どれほど大きな企業や団体に属していても、投票するときには、一人の人間です。経営者の一票も、従業員の一票も、一票です。
なんのための投票の自由なのか。
自分の一票を、誰かに売り渡してはいけません。その一票は、自分で考え、自分で決め、自分自身のものとして投じる。そのことにこそ、投票の自由の意味があるのだと思います。
自分の自由を阻止する力
投票するためには、社会について一定の見識を持ち、何を基準として判断するのかという自分なりの規範を持っていることも必要です。
社会について学ぶ。
異なる意見を聞く。
自分の考えの誤りや弱点を問い直す。
判断するための自分なりの基準を持つ。
そして最後は、自分で決める。
ただし、ここでいう「自分なりの基準」とは、何でもよいという意味ではありません。
私たちがこの国の政治について判断するのであれば、この国が何を基本的な価値とし、国家権力に何を許し、何を許していないのかを知らなければなりません。その最も基本的な規範となるのが、日本国憲法です。
野球をするのに、スリーアウトで攻守が交代するというルールを知らないまま、どちらのチームのプレーが正しいのかを論じることはできません。それと同じように、憲法が何を定め、何を守ろうとしているのかを知らないまま、この国の政治について判断することには無理があります。
その辺で誰かが勝手に作ったルールブックではだめなのです。この国には、この国のルールブックがあります。
日本国憲法です。
投票することが、自由な市民として当然の営みであるならば、その投票の前提となるルールを学ぶこともまた、当然に求められるのだと思います。
もちろん、これは、憲法について一定の知識を持たなければ投票してはならない、という意味ではありません。選挙権にそのような条件を付けようという話でもありません。
むしろ逆です。投票することが当然に保障されているからこそ、その一票を本当に自分自身のものとして行使するために、私たちは学ぶ必要があるのです。
ところが、その肝心の政治家自身が、憲法とは何かを理解しているのか疑わしい言葉を平然と口にすることがあります。たとえば、「現代の状況に合わせて憲法を変える必要がある」といった主張です。
憲法とは何か。その憲法がなぜ国家権力を拘束しているのか。何を守るために存在しているのか。そうしたことを踏まえることなく、単に「時代が変わったから憲法も変える」というのであれば、私はそのような主張を極めて浅薄なものだと考えます。そして、そのような言葉によって国民を動かそうとするのであれば、あえて十流政治家と呼びたいと思います。
問題は、その政治家一人の見識だけではありません。
自分自身の判断基準を持たないまま、その言葉に踊らされて投票すれば、自分で決めたつもりでも、実際には他者から与えられた物差しで自分のことを決めることになります。
それは結局、「私のことを私で決める」のではなく、「私のことをあなたに決めてもらう」ことです。
そして、そのようにして選ばれた代表者が国家権力を行使し、自由を狭める社会をつくれば、その結果によって失われるのは、ほかならぬ自分自身の自由です。
投票後しばらくして、居心地の悪い社会になったことに気付いても、後の祭りです。
自分の判断基準を持たず、自分で考えることを他者に委ねる。そのことによって、自分自身の一票が、自分の自由を阻止する力になってしまうことがあるのです。
投票することとは
投票することは、単に候補者や政党を選ぶことではありません。
何を大切にするのか。どのような社会で生きたいのか。他者の自由をどのように考えるのか。そして、そのために何を学び、何を基準として、最後にどのような判断をするのか。
そのすべてが、一票に表れます。
投票することとは、あなたそのものの表示である。
あなたはどういう人間なのか。
あなたはそれをどう表示するのか。


