憲法と安全保障
憲法の平和主義の話をすると、あなたは安全保障についてなにも分かっていないなどと批判されることがあります。この批判は的外れです。
なぜなら、両者は形式的にも実質的にも次元を異にする概念だからです。
形式的には、上位の法規範である憲法が下位の安全保障に関する国家行為を拘束する関係にあります。したがって、形式的影響力は憲法から安全保障へと一方向にしか働かず、安全保障の現状が憲法に影響を及ぼすことはないのです。
実質的に(内容や性質に着目して)も、両者は別次元の概念です。憲法が人類の長い歴史の中で獲得された普遍的な価値や理念であるのに対して、安全保障は現実的対応策です。前者を理念、後者を現実と単純化して考えると、理念を現実に影響させることは人類の英智に照らして順接的ですが、その逆は非理性的・反知性的です。このことは、次の例を考えれば明白でしょう。たとえば、「決して盗まない」という人生訓を掲げている人が、経済的に困窮したから現実に合わせて人生訓を変えて盗みをできるようにしたら、それはおかしいと感じるでしょう。
すなわち、人類の英智は憲法に適合するように現実を変えていくことを本来予定したのであって、現実に合わせて憲法を変えていくなどという主張はおかしいのです。憲法を変えるか否かの議論は、現実の影響を排除した形で行われなければなりません。長い歴史を経て普遍的なものまでに高められた憲法上の価値を、ここ最近の必要性(必要かどうかも疑問な話が多いですが)に引きずられていともたやすく捨ててしまうことは、先人に対してあまりにも失礼な振る舞いです。
そして、現実に影響されずに憲法上の価値を保持することは、簡単なことではありません。先の例で言えば、盗まないという人生訓を守り餓死することも覚悟しなければならないのです。軍隊を持たないがために他国に侵略された場合には、その結果をも受け入れる覚悟をする必要があるのです。
憲法上の価値を守るということは、このように現実を受け入れる覚悟を伴うものなのです。よく揶揄されるような空想・夢想・お花畑の世界では決してなく、生々しい現実を見据えた大変困難なものなのです。
冒頭の話に戻ります。
安全保障論は憲法の枠の中で語られるものであって、安全保障の現実が憲法の枠の広狭に影響するものではありません。
冒頭の憲法の平和主義の話は憲法の「枠」の話であって、具体的な安全保障「策」には言及しないものです。したがって、たとえ安全保障に通じていなくてもできる話なのです。それに対して、安全保障がわかっていないという批判を加えることは、逆に憲法と安全保障との関係性に対する無知を表明してしまうものなのです。
繰り返しますが、憲法論は理性という「枠」の話です。当然、抽象的かつ反現実的な内容となります。安全保障論は現実的な「策」の話です。当然,具体的かつ現実的な話となります。このことをよく理解すべきです。