行政書士の視野角(行政書士の責務)
□ 役人に必要な視野角
許可申請の窓口業務を担当し申請者とコンタクトする役人の視野の広狭は、事実上申請者の権利・自由をダイレクトに左右してしまう。それを知ってか知らずか、狭小な視野角で申請者の権利・自由を不当さらには違法に侵害する役人は少なくない。該役人はそのように振る舞うことが自身の有する権限であると思い込んでいる節があるが、当然ながら大いなる誤解である。
以前、こんな事があった。避難指示解除準備区域にある農地を親から子へ譲渡したいという親子からの依頼を受け、農地法3条に基づく許可申請をしたのだが、対象農地を管轄する町の役人との折衝において次のように言われた。
「営農計画書を提出してもらえますか。」
依頼者の親子は、故郷に帰還して農業を再開することを真に願っている。幸いなことに、農地のある地域は放射線量も低く、科学的には農業再開の可能性は高いといえる。もっとも、帰還を阻む社会的な壁が存在する。それは町の無策である。近隣の町は避難指示解除に向けて具体的な歩みを進めているのに、この町は歩もうとしていないと親子は嘆く。帰還した際に農業をスムーズに再開できるようにと除草や排水路の整備等をこの町に訴えても反応は鈍く、町は帰還を考えていないのではないかと疑うほどだという。町がそのような姿勢なので、インフラ整備の目処も立たず、当然ながら親子としても農業再開のための具体的プランなど立てようもない。そのような状況の下で先の言葉は飛び出した。
自己所有の土地の利用・処分に許可申請が必要となる状況は、原則である自由(財産権保障)の大きな例外である。所有者が自由に土地を利用・処分できることが大原則であるが、農地に関しては(公共の福祉などという抽象的な言葉にまとめられてしまっているが)他者の自由との調整において合理的と認められる程度において許可制が認められているにすぎないのだ(私の実感としては過度の規制に映ることは措く)。
はたして、町が帰還の目処も提示できないような地域にある農地に農地法の規制を及ぼすことにどれほどの合理性が認められるだろうか。ましてや、自らの無策を棚上げしつつ営農計画書の提出を求める行為のどこに合理性を見出せるだろうか。
許可申請に携わる役人には、原則にある申請者の自由への細やかな配慮と例外的規制を要求する法律の趣旨の十分な理解が要求されている。すなわち、まず自身の仕事のフィールドである許可申請の現場が申請者の自由を制約する例外場面であると認識することを大前提として、その上で申請者以外の他者(とくに少数弱者)の自由を確保する必要性・合理性を適格に判断し許可の適否を決することが彼らに課せられた責務なのである。その責務を適切に果たすためには、相応の知識及び知見を備えることが役人には求められている。この知識及び知見の多寡が役人の視野角を決している。原則と例外の区別すらも付かない程度の知見しか持ち合わせていない役人の視野は、角度どころか前後左右が反転してしまっているのではないかとさえ思える。
□ 行政書士に必要な視野角
さて、次は我々行政書士についてである。我々が運悪く先に挙げたような役人に遭遇したとき、事を荒立てないように役人の指示を丸呑みしてしまおうかと思うことがないだろうか。そうしてしまうことで確かに仕事は早く片が付くので、ひいては「国民の利便に資する」ことだなどと思っていないだろうか。
たしかに、行政書士法の目的規定には「行政に関する手続の円滑な実施に寄与し」ともある。なるほど、視野を「手続の円滑な実施」という字面だけにフォーカスすると、事を荒立てずに手続の流れを停滞させない対応も一理あるといえそうだ。
しかし、なにも我々が規範とする法は行政書士法だけではない。行政手続法を筆頭とする膨大な数の関連行政法規はもちろんのこと、民法・刑法等の実体法規、民事訴訟法・刑事訴訟法等の手続法規等々あらゆる法規範を視野の範囲に入れておく必要がある。すなわち、個々の法律だけを規範として判断するのではなく、全法体系を視野に入れて法解釈しなければならないということだ。そしてなによりも重要なことは、法体系の最上位に位置する憲法を常に視野に入れて業務に臨むことだ。
そういう法体系全体を見渡す視野角を持てていれば、少なくとも行政書士法にいう「手続の円滑な実施」を「適法かつ適正な手続の円滑な実施」と読むのだということは理解できるはずである。そうすると、手続は円滑である前に適法かつ適正である必要があるのであって、行政書士には適法かつ適正な行政手続の実施に寄与することが何を措いてもまず求められているということが分かる。また、「国民の利便に資する」とは、行政書士が行政手続に介入することによって適正な行政手続を担保し国民の自由保障を実現することを指すのであって、ファーストフード店のように「早い、安い」を標榜する便利屋のような稼業を指すのではない。
したがって、我々は、役人の行う不当又は違法な行為に遭遇したとき、そのまま丸呑みせずに、いちいち指摘して是正を求めなければならない。不当又は違法な手続の進行を妨げることも行政書士の責務なのである。視野角を広げて業務に臨み不当又は違法な行政手続を俊敏に感知し、躊躇することなく手続の流れを止めることも求められているのだ。実態としてはなかなか難しいことではあるが、そういう視野角だけは常に保持しておかねばなるまい。
数年前から始まった特定行政書士制度は、行政書士が依頼者と行政機関の単なる仲介屋ではなく不当又は違法な行政手続を阻止する責務を担っていることを明瞭化した点に意義がある。行政書士が単なる便利屋ではなく国民の自由保障のための視野角を保有していることを公示する効果があるのだ。もっとも、公示するだけで不適正な行政手続を抑止できるわけがないので、この制度と相俟って全ての行政書士が不適正な行政手続に対していちいち指摘して是正を求めるようになる必要がある。未だ特定行政書士制度は看板を掲げただけの印象ではあるが、特定行政書士に限らず全ての行政書士が先のように立ち振る舞い行政機関の監視者としての視野を持てるようになった時、血の通った制度となり実質的に適正な行政手続を担保できるようになるだろう。そのように運用しなければならない。
□ 法律家に必要な視野角
行政書士会は「街の法律家」などという言葉を用いて行政書士を宣伝している。最後に、ここでいう法律家という概念について付言してみよう。
法律家とは何か。私はこの問いに端的に答える。法は個人の自由実現のために存在するのだから、必然的に、法律家とは「自由を具現する者」である。日本のような立憲主義国家に適合するように言い換えれば「憲法を具現する者」である。法律家という概念は形式的な資格などを基準として定義づけるべきものではない。自由(憲法)を具現しようと仕事をする者はすべて法律家である。なぜなら、法律家にとって一番大切となる要素が権威にあるのではなく理念にあるからだ。法律家という概念は、かように実質的に定義づけるべきものなのだ。
繰り返すが法は個人の自由実現のために存在する。だから、法に携わって仕事をする者は実質的な意味での法律家でなければならない。自由保障のための視野角を広げる努力を怠ってはならない。自由という理念を実現するだけの素養を身につけなければならない。それは、裁判官であれ、役場の職員であれ、行政書士であれ違いはない。逆に、理念も持たず自由のための視野角を狭小なまま放置する者は、どんなに立派な資格を持っていても法律家に値しない。そのような者は法に携わる仕事をすべきではない。自由にとって迷惑なだけだ。
自由のための視野角を保ちつつ業務を行っていけば、自然に行政書士は法律家と認識されるようになるだろう。なすべきことは宣伝ではない。また、法に携わって仕事をする行政書士は実質的な意味での法律家である必要があるのだから、自由のための視野角を保てるよう日々研鑽しなければなるまい。