法とは何か
法とは何かという問いに、私は「自由」であると答えます。
みなさんは、「法」という言葉にどのようなイメージを持っていますか。おそらく、規制・制限・束縛といったイメージを持っているのではないでしょうか。確かに、法はそういう働きをします。
しかし、そのような法の働きは、ある目的のための手段にすぎません。その目的とは、ある人の自由の確保です。法は、ある人の自由を確保する目的のために、他の人の自由を制限するという手段を行使しているのです。
手段というものは目的のために存在するものですから、法において最も重要なものは目的であるところの「ある人の自由の確保」です。逆に、この目的を持たずに自由を制限する手段のみを持つものは、法とは呼べません。そのようなものを悪法と呼ぶならば、悪法は法ではありません。
手段として他の人の自由を制限すると書きましたが、それは他の人も許容できる程度の制限ですから、調整という言葉を使った方がよいかもしれません。法は、自由と自由を調整する役割、いわば自由の交通整理役を担っているのです。
さて、法の目的は「ある人」の自由を確保することと述べましたが、「ある人」とはどのような人でしょうか。
それは、法によって自由を確保してもらう必要のある人です。法によって自由を確保してもらう必要のある人とは、数的には少数者で、力的には弱者である人だと言えます。なぜなら、多数派で強者であるならば、法などの力を借りずとも自らの力でたやすく自由の範囲を拡大できるからです。そのような人にとって、法はむしろ鬱陶しい存在になります。
そうすると、法の本来の役割とは、少数派や弱者の自由を確保するために、多数派や強者の自由を一定程度制限することということになります。先ほど交通整理という比喩を使いましたので、それに沿って言えば、歩行者の安全を確保するために、自動車の走行速度を一定程度制限することと喩えることができるでしょう。このように、法というものは、弱者を守る、いわば正義の味方のような存在なのです。
さて唐突ですが、地球上に人間が一人しかいないとしたら、その人は自由でしょうか。そういう状況下では自由という観念自体が生じなかったでしょう。おそらく、自由という観念は、人間が人間社会において他者からの束縛を感じた時に初めて生じたものでしょう。地球上に一人しかいない人間は、自由ではなく孤独なのです。
人間は一人では生きられない社会的生き物ですから、自身の自由を確保するには、必然的に他者の自由との調整が必要になります。上述したように、その調整の役割を果たすものが法であるのです。もちろん、その調整方法は弱者に寄り添った正義に基づく調整である必要があります。
そうすると、(人間にとっての)自由には、法の存在が欠かせないことになります。自由には法が必要であり、法は自由のためにのみ存在する。自由と法は切っても切り離せません。
そこで私は、法とは何かと問われたときに、自由であると答えることにしているのです。