民主的統制とは名ばかりの専制的強制
日本学術会議の問題では、検察庁法の問題に続き、この国の稚拙な政治レベルが露見してしまっています。呆れてものが言えない様相なのですが、そう言ってしまってはおしまいです。そこで、これらの問題において、その正当化を図る際に用いられている「民主的統制」なる概念について考察してみましょう。
日本学術会議に対して民主的統制を及ぼす必要があるなどと不見識をひけらかす人がいますが、民主的統制といっても、その内容及び手段性は多様で、そもそも日本学術会議制度自体が権力機関への民主的統制を及ぼす制度でもあるのです。一般的に想定される権力的多数派からの官僚組織統制とは異なった、理性的少数派からの権力主体への統制であり、民主主義において不可欠の制度なのです。以下、この点について考察してみます。
民主主義とは何かの確認
今回も、自由主義と民主主義の定義の確認から入ります。自由主義とは、「私のことを私で決めること」であり、民主主義は「私たちのことを私たちで決めること」ですから、文字面からもわかるとおり、民主主義は自由主義を包摂します。それは、民主主義が自由主義実現の手段なのですから当然のことです。そして、単純多数決は民主主義ではありません。なぜなら、多数決だけで決めてしまえば、「私たち(少数派)のことを、あなたたち(多数派)で決めること」となってしまうので、明白に民主主義の定義を逸脱してしまうからです。そうはいっても、多数の人間の意見をとりまとめるために合理性を有している決議手段は多数決です。選挙、立法等においての最終決議手段は多数決です。そうすると、多数決の弊害を補う制度が用意されていなければ、多数決決議を採用している政治体制は民主主義とは呼べなくなってしまいます。そこで、民主主義を保持するために、議論を交わして少数派の意見を十分に汲み上げる場、すなわち国会等の議会の存在が不可欠であり、その場での審議討論により少数意見を汲み取る機能性が重要であるということもお話ししてきました。つまり、民主主義においては少数派の存在が尊重されるしくみが備わっている必要があり、それが不備であれば、それは民主主義ではないのです。
民主的統制とは何か
以上を確認した上で、民主的統制なるものについて考えてみます。民主的統制とは、民主主義的統制であり、決定権者(つまり私たち(当然「私」も))の意向を統制客体に反映させることを意味します。もちろん、民主主義の目的からすれば、多数派のみならず少数派の意向も反映されるようなしくみとなっていなければなりません。以下では、かなり単純化したサンプル構図を描いて、民主的統制なるものを考察します。
ある国では、A派の議員300名、B派の議員150名、C派の議員50名で立法府(議会)を構成しています。行政府の長である権力王は、議会の議員の中から議員の選挙で選ばれます。現在は、A派の議員が権力王となっています。この国の政治家は、歴史的にも、自由や民主主義を深く理解し、それらが国政において保たれるよう、立法府や行政府の制度設計を練ってきていました。その設計の1つとして、権力王の諮問機関として、理性会議を設置していました。理性会議の委員は、政治色を有しない一定の基準に基づいて全国の学者の中から100名が選ばれて任に当たっています。会議の自治及び自律性は保たれ、法令上形式的に委員の任命権者となっている権力王といえども、実質的には委員の人選等に口出しはできません。この理性会議設置の目的は、権力王の政治行動を理性的に抑制することにあります。政治的力学に縛られた権力王は、ややもすると専断的に独走しかねません。それを理性的に抑制する働きです。理性会議のメンバーは、政治から距離をおき専門科学を探究している学者ですので、真理追求の観点から権力王の専断性を抑制することが狙いです。
なぜ抑制が必要なのかといえば、それが民主主義にとって必要であるからです。それなぜか。権力王は社会の多数派から選出されたものですから、権力王の政治行動は多数派の意向であり、多数派が権力王を抑制することは通常想定されていません。そうすると、権力王を抑制することになる理性会議の意見とは、社会の少数派の意見ということになり、理性会議の設置は、実質的には少数派の意見を汲み取る制度でもあることになり、したがって、民主主義の保持に不可欠なのです。
さて、この国には、現在、問題が生じています。現在の権力王が、自由や民主主義への不見識から、理性会議の委員の人選に口を出し、A派の意見に異を唱えている学者を委員に任命することを拒否したのです。権力王の言い分はこうです。理性会議には多額の予算が配分されており、会議の独断を許すことは民主主義を否定することであり、理性会議に対して国民から選ばれた権力王が民主的統制を及ぼす必要がある、と。
民主的統制とは、決定権者の意向を統制客体に反映させることだと述べました。勘違いしてはならないのが、ここでいう決定権者には、多数派の者だけでなく、少数派の者も含まれているということです。つまり、民主的統制には少数派の意向も反映される必要があるということです。
例えに挙げた国では、自由と民主主義の尊重のために、わざわざ理性会議を設けていました。理性会議は、多数派の政治行動を抑制する機能を有していますから、少数派の意向を統制客体である権力王に反映させる働きを担っています。そうすると、理性会議制度自体が少数派から権力王への民主的統制を担保する機能を果たしているのです。つまり、理性会議制度自体が民主的統制のための制度なのです。
一般的に想定される民主的統制の構図が、多数派の意向を担った権力主体が官僚組織などを民意に基づき統制するというものなので、誰の意向(意向主体)なのか、誰を(統制客体)統制するのかという点において、理性会議制度が想定と合致していないため、誤解が発生すると思われます。
そうすると、権力王の言い分に基づけば、権力王による委員の任命拒否は、(少数派からの)民主的統制のためにわざわざ設けた理性会議に対して、(多数派からの)民主的統制を及ぼす意図で行った、ということになります。もはや、何を言っているのかもわかりません。つまり、理性会議自体が民主的統制の主体として存在しているのですから、その統制主体たる理性会議に対して、統制客体である権力王が民主的統制を及ぼすために人事に介入する政治行動をとることが全くの間違いであるということです。
日本学術会議による民主的統制
以上のサンプルを用いての考察を、日本学術会議の問題をあてはめてみると、民主的統制は、日本学術会議が政府に対して行うものであり、内閣総理大臣が民主的統制が重要と考えるのであれば、日本学術会議の自律性を尊重して委員の人選に口を挟まず、日本学術会議に対して積極的に諮問を行うことが必要となるのです。
日本学術会議会員任命拒否は憲法第15条第1項違背
日本学術会議会員の任命拒否問題について、内閣官房長官が、憲法第15条第1項を根拠に正当化を試みたようです。この試みは、自由・民主主義への無理解によるものであり、なんとも情けない限りで、意見する気力すら湧いてこないのですが、繰り返しますが、そう言ってしまってはお終いなのです。そこで、以上の説明からすれば、任命拒否は、まさにその憲法第15条第1項に反するのであり、違憲の根拠条項を正当化の根拠とするあたりが、現行内閣の現状を顕していて、それはまさに無法国家極まれりであり、ひどく愚かしい、とだけ意見しておきます。