民主主義(私たちの自由)とは自由主義(私「あなた」の自由)実現の手段
そういう民主主義という言葉への警戒感
民主主義という言葉を耳にすると、まず警戒する。民主主義という御旗を少数派に突きつけ、強制を迫る多数派の横暴。そんなイメージと共にこの言葉を観念するからだ。民主主義を多数決主義だと勘違いしている者がいかに多いことか。そしてそういう者達によってどれだけの自由が踏みにじられてきたことか。そう考えるとゾッとする。ゾッとすると同時に、あまりの論理矛盾に滑稽ささえ感じる。
民主主義は個人の自由実現のための手段
民主主義とは、「私たちのことは私たちで決める」ことだ。それは、「私のことは私で決める」という自由主義を実現する目的のための手段にすぎない。定義文言からも分かるとおり、民主主義(私たち)は自由主義(私)を包摂していなければならない。様々な個性が生きる多様性を保たなければならない。
民主主義は権力と対峙したときに機能する。
私(自由)という概念は明確だが、私たち(民主)という概念は曖昧だ。私とあなたがいるのに、なぜ私たちなのかを明確にする必要がある。
私たちとは、なんらかの共通項で個性の異なる私とあなたが結びついた時に生まれる概念だ。そして、民主主義とは、市民という共通項で結びついた私とあなたが共同して他者(権力)と対峙した時に生まれる概念なのだ。なぜ共同するのかといえば、自由を権力に蹂躙させないためだ。この目的のために、私(自由)とあなた(自由)が私たち(民主)になるのだ。
民主主義内部での個人の自由の弾圧
民主主義は、権力と対峙して自由を守る場面でのみ、その概念が明確になり機能する。それ以外の場面で用いられる誤った民主主義観念は、私たちの内部に私とあなたの隔たりを生じさせ、民主主義の目的である自由の擁護を見失わせるどころか、逆に民主という御旗(多数)の下に自由(少数)への攻撃を許してしまう。この矛盾が滑稽なのだ。
あなたの自由の尊重
私(自由)を包摂し、多様性を保つために、私たち(民主)は何をすべきか。それは、私たちの中で、私の自由を声高に主張することではなく、「あなたの自由」に対する細やかな配慮を尽くすことだ。そうすることで、私の自由は私自身が主張しなくとも、あなたの配慮を受けることで守られることになる。