思想及び良心の自由についての考察(1)_保障の対象について
思想及び良心の自由(日本国憲法第19条)が、何を保障しているのかについて、考察してみます。これまで、自由及び自由主義について考察してきた中で、自由(自由主義)とは「私のことを私で決めること」であると何度もお話ししてきましたので、この自由に対する理解を基底に、思想及び良心の自由の保障対象について考えてみます。
自由(自由主義)の定義について
まず、自由(自由主義)の定義について簡単に説明します。自由(自由主義)を「私のことを私で決めること」と定義づける上での要点は、自己決定にあります。自己決定こそが自由の核心であり、自己決定によらない行動は、いくらその人にとって快適であっても自由とはいえないからです。定義は「決めること」で終わっていますが、もちろん、「決めたように行動すること」も含意しています。以下で思想及び良心の自由について考察する場合、含意されて隠れている部分も明記した方がわかりやすいので、自由(自由主義)の定義を「私のことを私で決めて、決めたように行動すること」と表現します。
精神的自由というカテゴリー
日本国憲法の中で、思想及び良心の自由(第19条)、信教の自由(第20条)、表現の自由(第21条)、及び学問の自由(第23条)は精神的自由とカテゴライズされて、それら自由に対する侵害行為該当性及び許容性については厳格な審査の対象となっています。このカテゴライズは、壊れやすいため傷つきやすく、ひとたび傷ついたならば回復困難であるため、侵害行為に対しては、厳格な合憲性審査を必要とする権利群という括りです。これは、自由の性質に着目したカテゴライズです。
「内心」か「行為」かという指標
それでは、精神的自由群の各自由を、保障対象(何を保障しているのか)に着目して考えてみましょう。そうすると、主にいわゆる「内心」を保障対象としているのか、主に「行為(外部的行動)」を保障対象としているのかで、思想及び良心の自由(第19条)とその他のグループ(第20条、第21条及び第23条)に分かれます。すなわち、「内心」については絶対的に保障される(第19条)が、外部的な行為には公共の福祉の規制が及ぶ(第20条、第21条及び第23条)とする区別ができるということです。もっとも、「主に〜を保障対象としている」と述べたように、両カテゴリーはクロスリンクします。「内心」は「行為」で表現したいという意思を含むものですし、「行為」は「内心」に基づくものですので、交錯することは当然なのです。
保障対象は「決定規範及び決定過程」
そこで、今回の本題ですが、自由の定義に基づいて、思想及び良心の自由(日本国憲法第19条)の保障対象について考察してみます。自由の定義は、「私のことを私で決めて、決めたように行動すること」でした。すると、思想及び良心の自由は、その人が抱く思想及び良心に係ることですので、決めることも、行動することも関係していません。思想及び良心の自由の核心は、その人が抱いている思想及び良心それ自体の保障にあるのであって、「決定」や「行為」には着目してはいないのです。したがって、思想及び良心の自由は自由の定義から逸脱しています。自由の定義を逸脱しているわけですから、思想及び良心の自由を自由とは呼べなくなります(本来は自由を付けずに「思想及び良心」と呼ぶべきです)。それでは思想及び良心とは何なのかというと、それは自由(自己決定及びそれに基づく行動)のためのその人の内心にある「決定規範及び決定過程」なのです。自由(意思決定)にベクトルを与えるものです。これは自由の基礎をなすものですから、自由以上に重要であり、それに対する侵害行為該当性及び許容性については、その他の自由以上に、慎重かつ厳格に審査する必要があるのです。そして、「内心」への侵害行為(直接的制約)か「行為」への侵害行為(間接的制約)かという指標ではなく、その人の内心にある「決定規範及び決定過程」への侵害行為(直接的制約)か否かという指標によって侵害行為該当性を判断すべきなのです。
外部的行為への規制は、思想及び良心の自由の直接的制約となる。
国旗及び国歌を巡る判例(最判H23.5.30等)では、侵害行為は合憲という結論ありきで、外部的行為への規制は思想及び良心の自由への間接的な制約になるが、その制限が必要かつ合理的なものである場合には、その制限を介して生ずる間接的な制約も許容されると判示しています(いつものように最高裁の機能不全を露呈する内容であり、自由の敵である裁判所を変革しないと日本という国が不自由主義の状況から脱することができないことは明白なのですが、この点はまたの機会に)。つまり、思想及び良心は内心に止まっているのであるから、外部的行為への規制は思想及び良心を直接規制するものではなく、「間接的な制約」であるとして、その制約許容性について緩やかに審査したのです。これは、「内心」か「行為」かという指標に引きずられた(意図して引きずった)判断内容であり、この指標を、内心か行為かに拘泥せずに、その人の内心にある「決定規範及び決定過程」への侵害行為(態様を問わず直接的制約となる)か否かという指標に置き換えることで、侵害行為の目的、手段、目的と手段の関連性を厳格に審査する必要があるのです。すなわち、外部的行為への規制であっても、直接的にその人の内心にある「決定規範及び決定過程」を制約する目的を有したものもあり(引用判例における認定事実からはそういったことが窺える)、直接的にその人の決定規範及び決定過程をターゲットとして制約(上記判例における事実認定では、制約などという生ぬるい表現ではなく「蹂躙」という表現を用いるべきとも思いますが)を加えていることが少しでも窺える場合には、思想及び良心を絶対的に保障することに準ずるように、極めて厳格に侵害行為の合憲性を判断するべきなのです。そう、規制が、その態様を問わず、その人の「決定規範及び決定過程」に僅かばかりでも触れたと判断されたならば、原則としてその規制を違憲無効として取り扱うべきなのです。