自由とは何か。(1) 自由概念の再構築によるパラダイムシフト
自由とはなにか。自由という概念について、時間を見つけて五月雨式に述べていき、思考の整理をしていきたいと思います。まずは、自由の概念を再構築して、パラダイムシフトを促すことについて述べてみます。
自由という言葉を吐いた瞬間、社会の存在が顕わになる。
これまで、自由とは「私のことを私で決めること」と何度も述べてきました。まずは、この定義を手始めに、自由について考えようと思います。
自由という言葉・概念、すなわち「私のことを私で決めること」という意味の言葉・概念はなぜ必要となったのでしょうか。私のことを私で決めることなど、人が無意識的に常時行っていることで、あえて意識することがないため、生まれにくい言葉・概念だと思うのですが、いかがでしょうか。以前に言及したことがありますが、地球上にたった一人しか人がいなかった場合に、自由という言葉・概念が生まれたでしょうか。生まれない可能性が高いと推測します。全く制約のない環境においては、自由という言葉・概念は生まれ難いのです。矛盾する言い方ですが、人に、「心のままであること。思う通り。自在。」と広辞苑が表現する原理的自由が存在しているのならば、自由という言葉・概念は生まれなかったと推測されるのです。そうすると、自由という言葉・概念が現存しているのですから、人にとってなんらかの制約のある環境が存在していることになります。それが、社会です。私たち(私とあなた)の関係の総体です。社会的制約が自由という言葉・概念を生み出したと考えるのが適当だと思います。社会という言葉・概念も、とりたててそれを意識することがないものですが、自由という言葉を吐いたとき、その自由を制約する主体として輪郭が顕わとなるように感じます。社会(制約)が自由を生み出した、社会(制約)があって自由があるという機序であるということです。
自由という概念の再構築の必要性
以上を前提とすると、自由の概念については再構築する必要があると思います。原理的な自由は存在しないのですから、社会の中の自由、制約を前提とする自由を概念すべきだと思うのです。なぜかというと、そういう前提・背景を取り込んで概念把握することで、そういう前提・背景の中にある自由を保障することができると考えるからです。端的に、自由保障のためにです。
あなたのことをあなたで決めること。
それでは具体的にどう再構築すべきなのか。保障のための再構築なのですから、保障されるように再構築するのです。
社会の中で、個々人がそれぞれ自分の自由だけを認めろと声高に叫ぶとするとどうなるか。力のある一部の人の自由だけが保障される状況が出現するでしょう。それでは、多くの人の自由が保障されていないこととなるので、望ましくないでしょう。そうではなく、個々人それぞれが、私だけではなく他者の自由を尊重するようになることでこそ、多くの人の自由が保障されることとなるように思います。限度はありますが、自由の総量は定量ではないと思うので、個々人それぞれが他者の自由を尊重できている社会においては、そうでない社会に比べて、自由の総量が大きくなるでしょう。
したがって、そういう社会を形成することが自由保障につながるのですから、そういう社会が形成しやすくなるように、自由の概念を再構築すべきなのです。もちろん、概念の再構築だけで、望む社会が形成されるわけではありませんが、望む社会形成の端緒として機能すると思います。とくに、再構築した自由の概念を子供達に伝えることで、未来が変わる可能性があります。
具体的には、単純なことで、第一義的意義を主張から尊重に変えるのです。「私の自由を認めろ」ではなくて、「あなたの自由を認める」へと重点を変えてやるのです。それを、自由の定義・概念に反映させると、これまで「私のことを私で決めること」と定義づけていたものを、「あなたのことをあなたで決めること」と変えてやるのです。そうすると、私の自由を実現するためには、あなたの自由を犠牲にすることも厭わない姿勢だったものが、私にもあなたにも自由があるのだから、あなたの自由を支援する姿勢へと変わった状況をイメージできます。ちょっとしたパラダイムシフトです。そう、パラダイムシフトを促すように自由の概念を再構築するのです。