法の支配という言葉の使われ方
法の支配の定義
法の支配は、芦部信喜先生著作の「憲法」によると、「専断的な国家権力による支配を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理」と定義づけられています。端的に言えば、「法」という手段によって、「個人の自由」を擁護することを目的とするものなのです。
法の支配の「法」とは何か
法の支配の「法」とは、第一義的には、専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという立憲主義の思想に基づく立憲的意味の憲法を意味します。第二義的には、立憲的意味の憲法を頂として体系づけられた法律を意味します。すなわち、法の支配の「法」は、その内容が問われるのです。立憲主義の思想を具現化した内容を持つものでなければならないのです。このような内容を持つ法を「正しい法」と表現できます。法の支配の法とは、正しい法を意味します。
そうすると、個人の自由(人権)を大きく制限するような内容を持つ法(これを「悪法」と表現できます。)は、法の支配の「法」とは呼べなくなります。
したがって、行政権(国家権力)が、悪法を適正に執行したとしても、それは法の支配の原理に反することになるのです。
法の支配という言葉の濫用
最近、いろいろなところで、いろいろな人が用いる、法の支配という言葉を耳にします。法の支配という原理が社会に浸透しているのであれば、喜ばしいことです。もっとも、耳にする法の支配が意味するものには注意をする必要があります。果たして、正しい意味で法の支配という言葉が用いられているのか、チェックしてみる必要があると思うのです。
たとえば、どこかの国の首相が、他国に対して「法の支配を尊重した対応を望む」などとの声明を出したとします(この国の首相の自国内での行動を見ると法の支配への配慮など無いことは明白なのですが、その点は措きます)。果たして、このような場面で法の支配という言葉を用いることが適切かは、検討してみる必要があります。
濫用か否かの判断基準
法の支配という言葉の濫用か否かを判断する基準は、そこで用いられた法の支配という言葉の目的とするものが、個人の自由を擁護することに向けられているか否かで判断できます。法の支配の趣旨及び目的とするところに立ち返り、それと照らし合わせて判断するのです。法の支配という言葉を用いていながら、それを用いた目的が個人の自由を制限することに向けられていたり、あるいは、国益の確保止まりであったりする場合には、濫用を疑って検討してみることは有意義です。
とくに、国益の確保が目的である場合には、そこで言う国益と個人の自由とが具体的にどのように関係するのかを検討してみることは、法の支配の理解だけではなく、法的思考力の形成に大変役立つと思います。