個人の自由に対するコントロール
法は個人の自由を確保するために存在するものですから、法的思考過程の原点あるいは背景には、常に個人が据えられていなければなりません。このことは、個人を尊重するという価値が、法的思考を支配していると言い換えることが可能です。
そのような性質を持つ法的思考においては、国家、社会、組織など具体的な個人を超越した抽象的な集合体は、個人の自由に奉仕するために存在すべきものとして捉えられます。したがって、抽象的な集合体独自の利益を図ることを主題とするような思考態様では、いくら論理的であっても法的に思考していることにはなりません。
もっとも、法律には、会社などの組織自体の利益を守るための規定などが存在します。しかし、そのような規定は、組織自体を守ることに主眼があるのではなく、そのステークホルダー(たとえば株式会社の株主・債権者)である個人の利益を守ることに主眼があるのです。会社独自の利益を観念した規定ではないわけです。
世間には、「国家のため」「郷土のため」「会社のため」等々、抽象的な組織を原点とする物言いに溢れています。道徳心溢れる方々は、このような物言いに心を動かされ行動を起こされるかもしれません。もちろん、自らの意思に基づくそのような行動に対して、とやかく意見しようとは思いません。
しかし、法的観点からすれば、組織的な物言いの大半に個人をコントロールする機能があることに注意しなければなりません。その言葉を発する人に自分がコントロールされているかもしれないことに注意すべきですし、逆に他者に向かってそういう言葉を発する場合、他者の自由を制限する主役になり得ることにも注意すべきなのです。
国家のためなどといった組織的な物言いは、確かに道徳的には迎合したい気持ちになるかもしれません。しかし、少なくとも、具体的に誰がどのような恩恵を受けるのか、そのために自分のどのような自由が制限を受けるのか、両者のバランスが保たれているかなど、検討してみる必要があります。そうしないと、気付かぬうちにいつの間にか、自分の自由が誰かによってコントロールされてしまっているかもしれませんし、逆に誰かの自由をコントロールしてしまっているかもしれません。